第19話 灵南区の日常

 スザクの後に付いて行くと何故か人の気配は遠ざかり、買い物とは無縁の空間が続くようになる。天井を這う無数のパイプと、光沢感のある黒い何かに塗り固められた延長コード。マンションのように並ぶ部屋から伸びるそれらの線は歩を進めるごとに本数と太さを増していき、これらを供給する大元へ近づいていく。


「あの、スザクさん……」

「静かに。ちょっとだけ寄り道だ」


 やがて辿り着いたのは、壁一面に無数の電気メーターが設置された「管理人室」と書かれている部屋の前。わざとらしく足音を消すスザクに倣い、京華も息を潜めて後に続く。スザクはいくつもあるメーターのうちの一つを見つけると、ポケットからドライバーを取り出して音を立てないようにカバーを外し始めた。

 明らかに、悪いことをしている。

 京華が声を上げられない中、スザクは慣れた手つきでメーターの数値をいくらか戻し、何事もなかったようにカバーのネジを締め直す。そうして再び忍び足になって逃げるように立ち去っていった。


『早く、こっち』


 スザクは口をパクパク動かし、呆然と突っ立っていた京華を呼び戻す。窮地を脱した、らしい京華は先程見た光景を思い出しながら二人で元来た道を戻った。


「さっきの……」

「ゲンブが寝ても覚めてもネット三昧だからな、日課みたいなもんだ。スリルあるぞ」

「でも、ダメなことですよね? バレたらただじゃ済まないんじゃ」

「ああ、『バレたら』な。あと止めなかった地点でてめぇも共犯だ、スズラン」

「なんで! 私何もしてないのにっ……」


 喧噪が徐々に大きくなってくる。住人と思しき人たちとすれ違い、廊下の壁に「灵南商店街」という文字と矢印がスプレーで書かれている場所の先のフェンスゲートを開ける。

 道の両端から野菜や肉、海鮮物を並べた傾斜台が張り出す活気のいい街並みに出た。客と店主の間では京華の知らない言葉が飛び交い、何の料理に使うかもわからない生肉やスパイス・乾麺・ソースの類いがやりとりされている。


「ゲンブさん、エナジードリンクが切れてるって……ここに売ってるんですか?」

「奥の方にな。スズランも気になった物があれば教えてくれ」


 店の中には短刀を握った子供がたった一人で番をしているところもある。二人のような買い物客以外にも、上半身裸で水の入った瓶を運ぶ男、段ボールの積まれた台車を引く女、酒瓶を片手に彷徨う者などで道はごった返していた。


「うわ、あっちからなんか匂う」

「ああ、近くの屋台のガパオライスだな」

「冷凍食品売り場にあった!」

「そう言えばお前は陽の地あっちから来たのか。大変なところに迷い込んじまったな」


 かろうじて京華の記憶と重なるかもしれない肉屋には、むき出しの肉塊と数字だけが書かれた木札が雑に置かれている。三つの指を持つ動物の足、肉のかすが付着した太いあばら骨、透明な袋に入った、白く長いブヨブヨした腸……

 そもそもあれは何の肉だろうか。売り場にある物の一つ一つが京華の想像力を悪い方向へかき立てて落ち着かせない。他の売り場では店員の男が京華を睨むこともあった。


「ここのお客さんって、どんな人が……」

「店を持ってる奴が多いな。後は、家で料理をしようとする物好きか」

「あれ、こっちの人ってあんまり料理しないんですか?」

「そうじゃないのか? 私がやったらゲンブから散々な感想を貰ったんだが」


 もしかして、に続く言葉を京華が飲み込んでいると、目当ての店に到着したようだった。快活、元気、一日一本、と書かれた看板の間を抜けると薬品の匂いが襲いかかる。

 スザクが店の奥へ入っていくと、向こうにいた陽気な男性の声が声を掛けた。


歡迎光臨いらっしゃい!」「跟平常一樣いつもの


 むせるような甘い香り。少し歩けば、今度は鼻の奥を突くような刺激臭、更に進めばアルコールや塩素の香りも混ざる。足を踏ん張って倒れないようにしていると、既に買い物を終わらせたスザクが段ボール箱を二つ抱えて奥から戻ってきた。


「大丈夫か。慣れないなら外に出てもいいんだぞ」

「今度はそうします」

「帰りに何か食い物でも買ってくか……ん」


 京華の身体に何らかの異変を見つけたスザクは眉間に皺を寄せた。無言のままで来いと合図した彼女は商店街の通りから外れ、段ボール箱で作った物陰に隠れるよう指示する。


「スザクさん……?」「肩」


 質問の答えは低く静かに返ってきた。京華の肩から、灰色の煙が上がっている。


「あれ、なんでっ」

「前にヤオを飲んだのはいつだ?」

「ヤオ?」

「ああクソっ、アヤメと二人でよろしくやってたってことか……」


 舌打ちをしたスザクは煙を上げる肩をそっと撫でる。身体の塵化が止まる気配はなく、人差し指の通った部分がわずかに擦れていった。不安の中で京華がスザクを見上げると、彼女は落ち着きなく目線を下の辺りで動かしている。

 もしかしたら助からないかもしれない。最悪の予想がちくりと京華の胸を刺す。


「私……」

「やめろ、そんな目でこっち見るな」


 俯き、自分の身体を大切そうに抱き締める京華。スザクは通りの方をちらと確認した後、膝をついて顔の高さを合わせ、ゆっくりと両手で京華の手首を掴む。そのまま、怯える彼女をコンクリート壁に追い込んで背中をつけさせた。

 腕力の差は歴然だった。京華がもがいたところで逃れられる状況ではない。


「え、スザクさん……?」

「少し黙ってろ」


 食われる。そう思った時には全てが遅かった。手首を拘束されたまま、互いの合意が為されないまま京華の唇は一方的に塞がれ、身体の中に溜まった邪なものが吸い上げられる。

 建前は、京華の窮地を救うため。それが毒となり、スザクの頭を焼き付かせる。誰も来ない路地へ誘い込まれた京華は、それがいいことか悪いことかも分からないうちに「支配」を受け、舌を交わらせる度に価値観と倫理観を塗り替えられていった。


「あぁ……ぁ、んんっ……」


 ずぞぞ、という音を立てながら、京華の身体に混ざった陰の気は大方が吸い尽くされる。いつ頃か、身体から上がる煙は収まっていたが、二人が離れる気配はない。京華が首を横に振って強引に中断させると、息の荒くなったスザクは自身を落ち着かせるように深呼吸し始めた。その視界に、上目で許しを請うような京華の姿が映る。


「スザクさん、もう、いいよ……」

「スズラン」


 かっと見開いたスザクの眼は、中が濁流のように濁って見通すことができない。京華の手首からスザクの手が僅かずつ離れていくも、次の瞬間には、京華の首のすぐ横に握り拳が一つ突き立てられた。

 目を潤ませた京華は、頬を赤くし、惚けた様子で壁に背中を預けていた。その様子を見ていたスザクは、腹の中にあるものを押さえ込むように、低い声でゆっくりと語り始める。


「お前は、危険すぎる。正直見くびっていたが、こいつはアヤメ以上にヤバい!」


 ぐりぐりと拳が壁へねじ込まれる。

 古いコンクリートが剥がれ、欠片となって地面に落ちていく。


「その表情、一挙一動で相手を支配できるんだ。誰かを夢中にさせるのは勿論……お前のために死なせることだってできちまう。お前がそう望んでいなかったとしてもだ」

「何の、話……」

「覚えておけ、スズラン。お前は魔性の女だ。ゲンブとアヤメが居なかったら……行くぞ」


 その一言で、京華は自分の帰りを待つ二人の存在をはじめて思い出した。言われたことを頭の中で繰り返した後、再び段ボール箱を抱えたスザクの背中について路地を出る。

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