灵南電気街

第11話 天堂飯店

 連絡橋を渡った二人が辿り着いたのは、天堂ティンタン飯店灵南リンナン店。灵西区の系列店にも負けず、この店の外装もうるさい電飾で覆われていてよく目立つ。

 だが、明るい外装に反し、建物の中は消灯後の病院のように暗い。フロントにも人の姿はなかった。代わりに、そこには十五ある部屋の内装と部屋番号、空室状況が記されたパネルが置かれている。アヤメはそれを前に京華に意見を求めていた。


「スズ、どの部屋がいい?」

「……なんか、どれも想像してたのと違う」

「そうか? 師匠はよくいろんな部屋に泊まらせてくれたが……」


 京華は、パネルに映し出された部屋の中で最も親近感のある――もっと正確に言えば、無難なデザインの――部屋を指さした。その後はアヤメが宿泊の手続きを済ませ、京華は彼女の案内で薄暗い廊下を歩く。


 二人用には妙に広いダブルルーム。アヤメは使い慣れていたせいか特に気にすることなく、大太刀を外して机の上に置いた。そのまま、アヤメが結んでいた髪を解く。すると横顔の印象が大きく変わって……


「ん、京華?」

「……なんでもないよ、なんでも。あれ、壁に地図が貼ってある」


 京華が見つけたのは、灵南区の様子を簡易的に表した一枚の地図。道が複雑に入り組んでいる幽灵はまるで迷路のようであったが、そのことには京華も驚かなくなっていた。アヤメは灵南区の中央を走る電気街を人差し指で辿り、本の記号が置かれた地点を示す。


「この付近で本を探すとしたら『灵南図書館』だ」

「電気街の近くだね」

「ちょうど、私はそっちの方にも用事がある。スズ、スマホを見せてくれ」

「え? いいけど……」


 京華は画面の割れたスマートフォンをアヤメへ差し出した。電源を入れようとしてもやはり反応しない。仮にうまく起動できたとしても、元の世界と同じようには使えないだろうが……


「……うん、陰の地イァンで見る物と比べて大きな違いはないな」

「こっちの世界でスマホって使えるの?」

「使えないが、使えるようにできる。詳しい奴があの街のどこかにいるらしくてな」

「じゃあ、これはアヤメちゃんに預けておくよ。もし直ったら返してね」


 借りていた部屋の窓際から、下層で入り組んだ路地を見下ろせた。

 物陰で身を潜めている薬の売人、飯店に入る金すら持てず寝転がっている浮浪者、占いの看板を掲げた小さなテント、拾った長い髪の毛を手入れしているかつら屋、それらの間を縫うように進んで夜市へ向かう労働者……太陽がないことで朝と夜が切り替わらないこの世界では、二人がこれから休もうとしている時に別の場所では誰かが起き上がっている。


 外を窺っている京華の背後でアヤメは時計のアラームをチェックアウト時刻に合わせると、彼女のセーラー服をしばらく見つめた後に軽く肩を叩いて振り向かせた。


「服がかなり汚れている。丁度いい機会だ、洗ったらどうだ」

「あ……そっか、こっちの世界に来た時に」

「ここの飯店は水が安いんだ。寝てる間に乾かせばいい……よし、じゃあ脱げ」

「うん……え? 替えの服って」「ない」


 京華は目をぱちくりさせてからもう一度アヤメの顔をじっと見つめるが、彼女は何も言わずに首をただ縦に振るだけだった。


 それからしばらくして――薄暗い部屋で、ちゃぷちゃぷと水音が立っていた。


「う、やっぱ冷たい……」


 部屋に設けられた金たらい。その中では、注がれた水に赤黒く汚れたセーラー服とスカートが沈んでいた。横には難しい名前の洗濯用洗剤が置いてある。


 あれから結局、京華はひん剥かれた姿のまま服を洗っていた。もみ洗いで綺麗になったセーラー服をハンガーにかけ、次に道着と袴を手に取る。アヤメがずっと着ていたものだ。

 幾度となく戦いに駆り出されたそれは所々に染みが残り、身体が直に触れる部分は汗で黄ばんで落ちなくなっている。ほんのり、痺れるような香りがした。頬を緩ませた京華は手にした服を浸し、遠くから聞こえるシャワーの水音を聞いて物思いに耽っていた。


『京華、今日は洗濯当番だよね?』

『わっ、すごい! あのシミ落ちないって思ってたのに……』

『丁寧にやってくれるから助かるよ。私はこういうの雑にやっちゃうんだよね……』


 今は亡き姉との何気ない会話が脳裏に蘇る。優しい思い出に浸っていると、ふと、大好きな人の顔にアヤメの像が重なってきた。胸元に重い感覚を抱えた京華は再び手を動かし始め、ぱりぱりに乾いていた血の粉を溶かすように道着を擦る。


(お姉ちゃん……)


 姉が背中に張り付いている気がした。首が下を向いた。

 シャワーの音が止む。ユニットバスから出たアヤメが白い樹脂パネルの向こうで身体を拭き始めた。心の整理がつかない京華は気を紛らそうと一心不乱に手を動かす。


「上がったぞ、スズ。お前も早くさっぱりしてこい」


 長い髪にタオルを巻いたバスローブ姿のアヤメ。京華が浮かない表情をしていることに気付くも、彼女はすぐいつもの笑顔でアヤメを見つめ返した。


「洗濯、こんな感じで良かったかな?」

「ああ、とても綺麗になったと思う……」

「じゃあ、これ干して私もシャワー浴びるね。身体、冷えちゃった、あはは」


 急かされたように道着と袴をかける京華。逃げるようにユニットバスの部屋に飛び込んでドアを閉め、シャワーのお湯が出るレバーを最大まで捻った。その後、頭から湯を被りながら浴槽の中で三角座りになり、両手でこぶしを作る。

 微かな嗚咽は水音にかき消された。頬を流れた露が顎の先から垂れていった。




 一方、アヤメは備え付けの小さな机の傍で髪を乾かしていた。バスローブ姿で安物のドライヤーを回しながら、かつてカンナと交わした会話を思い出す。


『アヤメはな、私が拾ったんだ。酒を飲んだ日の帰り、道のど真ん中でお前が何とも痛ましい姿で倒れてた。服は引きちぎられ、人の形を保っているのが不思議なくらいだった』

『そろそろこっちに来て半年か……本当に、お前は賢い奴だよ。幽灵の街のことも、剣のことも、喋ったことは全部覚えちまった。自慢の弟子だよ』


 微笑みながら頭を撫でてくれたカンナ――それを思い返していると、ドライヤーで指先が熱くなる。火傷しないように手を動かしているうちにシャワー音が止まり、髪を拭いた後の京華がアヤメと同じバスローブ姿で戻ってくる。

 さっぱりしてご機嫌な笑顔だった。それでも、アヤメの中では、彼女が浴室へ入る直前に見せた陰のある表情がちらついた。


「スズの肌は綺麗だな」

「そんなことないよ……あんまり見られると恥ずかしい」

「照れなくてもいいのに。そうだ、折角だからスズの髪も乾かすか」

「じゃあ、うん、お願いするね」


 アヤメは膝の上に京華を座らせ、彼女の短髪を指で梳きながらドライヤーの温風を当てる。時折指の腹で頭頂部を撫でると京華はくすぐったそうな声を上げた。


「私はよく、師匠に世話してもらっていたんだ」

「カンナさん、優しいんだね……」

「武に関しては厳しいが、生活では何度も助けられた。今でこそ一人でもなんとかこの町で生きていけるが、あの人がいなければそうはなれなかっただろうな」

「うん……」

「スズは……向こうの世界で、誰かにこうしてもらっていたのか?」


 返事はなかった。アヤメは不安になって彼女の顔を覗き込む。

 京華は座ったまま、その場で目を閉じて安らかな寝息を立てていた。ここまで移動続きだったから仕方ない。身体が冷めていくのも、眠気を手伝ったのだろう。


「乾かしたから寝るぞ。ほら」

「ん……」


 アヤメは京華を連れてダブルベッドに入り、同じ布団で二人の身体を覆った。それから、まだ暖かい京華に寄り添い、乾きたての髪に鼻を当てて目を細める。


(不思議だな)

(お前が来るまでは、いつも漠然とした不安に包まれてたのに)


 京華は目を閉じたまま動かない。

 それを分かって、アヤメはこう語りかけた。


「私の知らないところで、いなくなるんじゃないぞ。スズ……」

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