第6話 庚申寺

 稚拙な継ぎ接ぎで作られた廊下を逃げ続けた京華たちは、黄色の提灯が並ぶ街に出ていた。人混みの中を歩いていると浮浪者の男たちが二人を興味深そうに見てくる。


 灵西リンシー樂趣ルーシューと書かれた通りに目立つのは飯店ホテルを掲げた看板。近くにはぎらぎらと紫色の電飾で縁どられた「無料案内所」の文字が躍り、それぞれの店へ続く扉の前には帽子を深く被った男が手を前に組んで立っていた。誰とも知らぬ者の視線を受けた京華は生理的嫌悪感に顔を歪め、アヤメの手を取る。


「……本当に、ここを通るの?」

「そのつもりだ。この辺り一帯は深淵ディープとは別の組織が仕切ってる。連中が追いかけてきたとしても、ここを抜けるまで時間稼ぎすることはできる」


 歓楽街である樂趣路の天井は他と比べて高く、少し遠くの方まで見通せた。瞼を貫くほどの黄色の光を受け、男たちの波に揉まれるように奥へ奥へ進むと、遠くに瓦屋根の仏塔が浮かび上がった。そこだけが暗く静まり返っている。


「やあお嬢ちゃん、お金に困ってない?」

「おい、彼女たちはどこの店の子だよ……」

「おや、二人は姉妹のようだ。二人でお仕事に興味はないかね」

 二人は喧騒を抜け、人気の少ないところで一息ついた。心配になったアヤメが振り返ると、京華は大量のポケットティッシュを片腕に抱えて顔を真っ青にしていた。


「断ればいいのに。あって困るものではないが……」

「だ、だって、あの人たち、なんか怖くて」

「スズは純粋だな。その癖、そういう匂いが分かってしまうのが不幸か……」


 ネオンに照らされた道の先は開けていた。人通りは先程と比べると格段に少ない。男が一人、こちらに背を向けながら座ってきょうを唱え続けているだけである。遠くからは樂趣路の賑わいが未だに聞こえてきていた。


「ようやく落ち着けるぞ……ああ、腹も減ってきたな」


 夜市の屋台街を思い出しながら京華は溜め息を吐く。アヤメは彼女の背中を叩いてから寺へ続く道を先導した。開けた箱部屋の真ん中には細かい砂で池が表現され、土と砂が盛られて島のようになった場所を朱色の反り橋が繋いでいた。




 庚申寺こうしんじ。近くの石塚にはそう彫られていた。橋の先の門を抜けた先には本堂が作られており、蠟燭の火が境内を照らしていた。馴染みのある景色に、京華はどこか安堵する。


「こんなところが……」


 熱心な宗徒の前を何人か通り過ぎた後に門をくぐる。すると、境内にいた人影が女の声を上げて本堂へ隠れていった。京華は不安げな顔でアヤメをちらと見る。

 じっと心が揺れるような時間を過ごしていると、紺色の作務衣に身を包んだ僧侶が本堂から姿を現した。頭を丸めていた彼は二人へ一礼し、敵意がないことを示す。


「ようこそ、庚申寺へ。気の流れからしてそちらは宵鬼シャオグィ、そしてこちらは――」

「彼女は明花ミンファの素質を持つ者です。深淵に追われ、こちらへ逃げてきました」

「それはそれは……どうぞ中へ。住職のシャオです。名は『笑う』の字を書きます」


 シャオと名乗った男の案内で、二人は本堂の中へ入る。

 中心には怒り顔の神を象った本尊が置かれ、力強いつくりの足に何かの虫を模した生き物が踏み潰される造形がなされていた。像の周りには座禅を組んで経を唱える者が十人程いたが、誰も京華とアヤメには目もくれなかった。


「奥の部屋で休めます。ただ、他の明花もいるので刺激しないようお願いします」

「本当にすいません。シャオさんは、どうして私たちを……」

「陰の地は、弱き者には辛く苦しい世界でございます。庇護を求めて集まる者も少なくありません。ここは昔から、そのような者を匿っているのです」

「ご迷惑お掛けします」


 本堂の奥には広々とした空間があり、簡易的な衝立によってスペースが区切られている。そこには既に、男女問わず多くの人が狭い空間を分け合うように寝床としていた。彼らは全員疲れ切っており、京華たちが入ってきても殆ど反応しない。部屋の主なところに行灯が置かれていたが、寝床はどこも薄暗い。

 案内された二人はシャオから二人分のスペースを貰い、そこで腰掛けた。彼は一礼の後、他の明花たちを一人一人訪れては跪いて様子を見て回り始める。京華はやっと脱力し、アヤメと向かい合うように横になった。


 二人の身体の下には薄い敷物がある。京華にとっては、この世界に来て初めてのまともな寝床だ。思い出したようにスマートフォンを取り出してみるが、その画面にはひびが入っていて電源の光も点かない。彼女のひどく消耗した顔が写るだけだ。


「お腹空いてるけど、眠い……」

「ああ。一休みしたら近くで夜市を探そう」

「本当に色々ごめんね、アヤメちゃん」

「大丈夫だ……そうだ、一つ、聞いてもいいか」


 アヤメは申し訳なさそうな顔になると、少し考えてからこう尋ねた。


「呼び出しておいて失礼かもしれないが、元の世界は、やはり恋しいか?」

「……今は、アヤメちゃんと会えて良かったと思ってるよ」

「そうか。そう言ってもらえて、良かった」


 京華の手を握ったアヤメは頬から力を抜き、そのまますぐに寝入った。彼女の表情を見つめていた京華もやがて眠りにつく。二人の寝顔はとてもよく似ていた。






 その日、アヤメは、まったく知らない場所で机に伏している夢を見た。これはとある高校の教室での話なのだが、それを彼女が悟るのはもっと先のこととなる。


『京華、なんか最近いい子ぶってない……?』

『わかる、先生からダメって言われたこと絶対やらないよね』

『なに、点数稼ぎでもしてるの?』

『さあ? あの子、何考えてるか全然わかんないじゃん。笑顔も作ってるでしょ?』

『やっぱそう見える? でもみんな馬鹿だよね、先生も男子もコロってなっちゃって……』


 起きた時、アヤメは夢の内容を殆ど覚えていなかった。

 ただ、胸の奥が締め付けられるような気持ちだけが残っていた。

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