灵西区

第4話 師匠を訪ねて

 おもての剥がれた合板、赤黒いトタン、汚れたプラスチック、錆びた鉄筋、劣悪なコンクリート、乾いた泥、固まった血。二人のいる構造物は有り合わせの素材で組まれており、何かが建てられた上に別の何かが建てられるのを何層も繰り返している。それに秩序のようなものはない。方向を問わずして、違法増築じみた光景がずっと続いていく。


 京華とアヤメの二人が迷路のように入り組んだ建物内を歩いている間、通り過ぎる看板にはどれも「幽灵」の字が書かれていた。だが殆ど古く汚れ、字の欠けたものも目立つ。


「深淵は、私たちが今いる灵西リンシー区を支配する武装集団だ。彼らと対峙する前に、まずはスズが自分で戦えるようにならなければならない。心構えもだ。それが無ければ、武器があったとしても戦えない」

「でも、どうしたら……アヤメちゃんみたいにはできないし……」

「見立てが正しければ、スズには才能がある。理解できる時が来るはずだ」

「そうかなぁ」

「それに、武器の使い方については私の師匠が導いてくれる。彼女の元へ向かおう」


 迷路のような道の先にある一枚の鉄扉。アヤメは身体を当てて押し開ける。錆びた蝶番が割れる音と共に二人の目の前が開き、涼しい風が吹き付けてきた。


「街を抜けていく。離れるなよ」


 扉の先には、橙の提灯で照らされた屋台街が広がっていた。主に扱われているのは、小ぶりながらも肉汁が詰まった小籠包ショウロンポウ、葱の香り漂う葱油ツォンヨウ炒飯チャーハン、千切りの根菜を肉餡と巻いて揚げた春捲チュンチェン、海老と肉の甘辛煮を飯と混ぜた魯肉飯ルーローファン。京華にとっては縁遠いものが並ぶ大通りは、二人の他にも多くの人で賑わっている。屋台の看板は赤や黄色といった目立つ色で、それが照明と相まって現実感のない風景を作っていた。


「わぁ……」

「腹が減ったか?」

「ううん、まだ大丈夫。凄い場所だね」

「灵西区の中央を貫く灵西夜市リンシーイェーシーだ。金があれば飯に飽きることはない。落ち着いたところで、また案内しよう」


 常にどこかで誰かが喧しく話しており、アヤメの声も気が緩めば消えていってしまう。京華は身体を当てられないよう、人衆の間に身を滑り込ませながら後を追いかける。

 やがて、金色のネオンライトで「天堂ティンタン飯店」と輝く建物の前に到着する。横には悲しいくらい古ぼけた木の扉があり、その先には集合住宅を思わせる長い廊下が伸びていた。


「ここの路地の奥だ。隣の目立つ建物が良い目印になる」

「うわ、凄く光ってる、眩しい……」

陽の地クァンで言うところのホテルだ。宿泊以外にどんな目的でも使えるが、まだ私たちに用は無いな。あんな風に外はまあ豪勢だが……」

「……そんなこと言って、怒られない?」

「知ったことか。ほら、この部屋だ」


 路地に入ると嘘のように人の姿が消える。狭っこく掃除している老人の横を通り過ぎた二人は目当ての部屋の前で止まり、アヤメが戸を叩いた。


「師匠、例の明花ミンファを連れて参りました。失礼します」


 中から、女性の声で返事があった。アヤメの案内に従い、京華は恐る恐るといった様子で部屋の中へ足を踏み入れる。襖を跨いだ先の土間で靴を脱ぎ、白い靴下で畳を踏む。




「お邪魔します……」


 格子状に組まれた平天井の下に作られた、数寄屋造りの六畳間。その真ん中では、緑色の髪を伸ばした浴衣姿の女性がだらしない様子で寝転がっていた。アヤメが用意した座布団に座った京華は、目の前の彼女の様子を見て目をしばたたかせる。

 先程京華が「視た」アヤメの師匠は、もっと凜とした佇まいだったのに……


 散乱するのは空になった一升瓶三本、夜市の料理が入っていたフードパック。部屋の隅の黒い袋には、やたら長いピンク字タイトルのビデオが何本も入っていた。


「アヤメちゃん、この人、起きてる?」

「そのはずだが」

「……ん、ああそっか、来たのか」


 緑髪の女性は二人に気付いたように起き上がり、アヤメへ手を上げて挨拶した後に京華の顔をじっと覗き込んだ。いきなり見つめられた京華は背中を反ってしまう。

 女は、見た目こそ端麗な顔つきをしていたから惚れる女は後を絶たないだろう。しかし今の彼女は堕落に堕落を重ねており、とてもではないが何かを成した人には見えなかった。鳥の刺繍が映える水色の浴衣も今は花魁のように着崩され、襟元は緩く、肩も丸出しになっていた。


「なるほど、君が"もう一人のアヤメ"か、確かに顔がそっくりだ。名前は?」

「えっと、私は、しの――」


 横のアヤメからぎっと鋭い眼光が飛んでくる。京華は慌てて言い直した。


「――スズラン、です」

「いいねぇ、この世界の決まり事も分かっている。ところで二人はもうシたの?」

「えっ、何をですか?」

「師匠……!」


 顔を真っ赤にして俯くアヤメ。それに構わず、師匠と呼ばれる女性は快活に笑うと、そっと人差し指で京華の顎を微かに持ち上げる。


「わかったよ。じゃあ話を始めようか。私はカンナだ。スズちゃん、よろしく」

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