第3話 甘美な誘惑
異界への入り口は、案外、身近な場所にある。
高校二年生の夏休みを控えた京華はその日、懐かしい声を聞いて早く目を覚ました。声の主は半年前に死んだ姉。最初は幻聴を疑っていた京華だったが、普段通り高校へ向かっていると「声」がはっきりとしたものへ変わっていく。それは明らかに、自分を呼んでいて――京華は高校を通り過ぎ、遠く離れた歓楽街を訪れていた。
(もしかして、本当に、お姉ちゃん……?)
朝を迎え、誰の姿もなくなった夜の街。普段決して京華が訪れることのない場所だったが、今の彼女は声に誘われるまま、路地の奥、錆びた物置まで導かれてしまう。
半ば正気を失った様子でがたついた戸に手を掛ける。開くと、気分が悪くなる濃い湿気が漏れ出てむせた。物置の外見からは想像できない空間が口を開けていた。
一基のエレベーターの籠が、京華を待っている。
『京華』
声の出所はここだった。
そこに入れば、普段の生活には戻れない――籠の中にあった埃だらけの鏡に、目をかっと開いたまま自分の身体を抱き込む彼女が映っている。思わず下を向いた瞬間、後ろから、同じセーラー服を着た少女が京華を追い越していった。
(……え?)
慌てて顔を上げた先に見たのは、歩くリズムに合わせて揺れる黒髪の一本結び。いつも追いかけていた、生前の姉の後ろ姿。考えるよりも先に京華の手が伸び、足が動き――
だが、京華が籠に乗り込んだ瞬間、姉の姿は霧が散るように消えてしまう。
(あっ――)
鏡の中で、エレベーターのドアがゆっくりと閉まっていった。
とんでもないことをしてしまった。京華は慌ててエレベーターの「開」ボタンを叩くが反応はない。外部と連絡を取るためのボタンも押すが、こちらも反応はない。
「出してください……! お願い、ここから出して……!」
非力な少女の精一杯の拳は、硬い扉に何度も跳ね返される。それでどうにかなるはずがない。恐怖と絶望に塗れた少女を乗せて、籠は数回揺れてから突然の「落下」を始めた。
今の京華には何の抵抗も許されない。頭上から、錆び付いたワイヤーのぎりぎり擦れる音が耳を劈いた。
『――界です』
視界が傾くと同時にドアが開き、京華は転がるように籠から追い出された。
そこは太陽が存在しない世界。十段以上に組まれた建造物のトタン屋根へ弾き出された彼女は、腕で頭を覆いながら腐食した屋根を突き破り、作りの甘い床板を二段打ち抜いた末にようやく伸びることが許された。
頭の中を揺さぶられた京華はしばらく動けなかった。そうして、今に至り――
「ここって、地獄? わ、私、悪い子に、なっちゃったの……」
「スズ、まずは冷静になれ。まだお前は死んでない」
あれから二人は、「幽灵清掃会社」と古い看板が示す部屋で身を休めていた。
室内には机と椅子と寝台がそのまま放棄され、かつて清掃員らがここを休憩所としていた様子が伺える。横になった
「ねえ、私のお姉ちゃん、知らない?」
「……お前を呼んだのは私だ。だから姉のことは知らない……」
京華は、それに対して何も返さず、両手で顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。傍に座っていたアヤメは彼女の頭をそっと撫で、本当にごめん、と声を震わせる。
「なんでっ、こんなところに、連れてきたの?」
「手短に話す。一度に理解しなくていいから、ゆっくり聞いてほしい」
アヤメは
「一緒に、世界を救ってほしい。こっちの世界は今、消滅の瀬戸際にある」
「……私、が? 人違いじゃなく……」
「ああ、お前じゃないとダメなんだ――まずは、今のスズの身体を見てくれ。手を」
京華は、涙で腫れた目元を覆っていた手を剥がし、恐る恐るそれを確認する。
細く白い指の先から、細かい粒子が煙のように上がっていた。
「なにこれ」
「塵化が始まっているな。このままだと、お前の身体は消えて無くなってしまう」
「えっ……」
「難しい話をするぞ。スズがいた世界は
「それが、どうしてっ」
「陰と陽の強さが拮抗すると、物体はその特性を失って姿形を保てなくなる。そして陰気と陽気は、一つの身体に同じだけ存在しようとする……川の魚が海で生きられないのと同じ理屈だ。スズは、
「じゃあ、このまま、消えちゃうの?」
京華は両手で顔を覆って首を振った。指には斑点模様が浮き始めていた。
「スズ。私は今のお前を助けられる。だから、私のことを信じてほしい」
そうして二人は向かい合う。お互い殆ど同じ顔をしていたのに、互いが受ける印象は全くの正反対だった。京華の顔は純粋で可憐に、アヤメの顔は重く凛として映る。
横になっていた京華の身体を跨ぐように、アヤメは寝台に両膝をついた。
「……どうか驚かないでくれ。これは必要なことなんだ」
「うん。嫌なことも、我慢する」
「ああ、本当に、何も知らないんだな……」
頬をほんのりと赤く色づかせたアヤメはそのまま両手を突き、京華と額を擦り合わせる。純粋な彼女とは言え、これが普通の雰囲気でないのはすぐに分かった。
アヤメの息が京華の小さな鼻を温める。いよいよ京華はこの後を察したが……
「あの、アヤメちゃん。これって、まさか」
「ああ。お前が思う、その……『まさか』だ」
至近距離での言葉のやりとり。それを済ませた後、二人の間に会話はなかった。
ほんの少し、互いの口が触れ合って形を変える。何度か繰り返すうちに唇は徐々に湿り、舌と同じように濡れて滑らかに変わった。やがて、アヤメは京華の口をぴったりと塞ぐと、腹の中の何かを引きずり出すように吸い始めた。
「う……、あ、ううっ……」
身体の奥に溜まったものが喉を上る感覚。それは本来嫌なはずなのに、同時に押し寄せる心地よさに負けてしまう。アヤメは肩を優しく叩き、我慢しないように促した。
ぐる、ぐるぐる、ぐぽっ、ごぽ、ぽこぽこっ……粘り気の強い、チョコレートに似た液を京華は吐き出し、アヤメがそれを口伝いに飲み干していく。
「あ……はあっ、あぁ、アヤメちゃん、ごめんっ……!」
「心配いらない。スズの出したこれ――陰の気は、私には好ましいものだ」
京華は自分の手を確認する。指先は五本ともはっきりとした形を保っていた。
だが――今度は、目の前のアヤメの髪先からも細かい粒のような煙が上っていた。
腕をそっと回し、アヤメの身体を引き寄せる。体格の違いを感じながらも、京華は今度は自分から唇を重ね、自分がそうしてもらったようにアヤメの体内にある『何か』を吸い上げ始めた。彼女は抵抗せずに身を任せている。
こぽ、という音から染みだしてきたのは白い粘液だった。京華にとってそれはホワイトチョコレートのように甘美だ。舌を奥の方まで差し込み、もっと欲しいとねだってしまう。
「ん……はあっ……とっても、甘い……」
すると一瞬だけ、見たことない景色が、京華の頭で再生され始めた。少し前の出来事だろうか……アヤメが、浴衣姿の女性と和室で何かを話している様子だ。
『師匠。私は、何のために生きているんでしょうか。私の存在とは……』
『その答えはアヤメが見つけるんだ。大丈夫だよ、その問いを持つ時期は誰にもあるが、それが分かる時期もまた、誰にもある』
そこで記憶の再生は終わり、京華は現実に引き戻される。初めてのことで混乱している彼女が状況を把握するまで、アヤメは何も言わずに待ってくれていたようだ。
「スズが吸ったのは私が溜めていた陽の気だ……そして、気を媒体に共有された私の記憶。物わかりが良くて助かった。私も、少し危ないところだったみたいだ」
「でも……これからもたまに、恥ずかしいことしなきゃいけないんだ……」
「その辺の連中は薬を飲んで凌いでるが、あれを買い続けるのは高くてな。これからを考えると現実的ではない」
身体の擦り傷はなくなっていた。京華は身を起こし、寝台に二人で腰掛ける。
「もう一度言う。スズ、お前の力が必要だ」
京華の脳裏に、誰ともつるめず教室の隅に座る自分の姿が蘇る。そして、目の前で微笑むアヤメ――姉の面影を持つ凜々しい女性――の顔と向き合い、真剣な表情で頷いた。
「……うん、分かった。アヤメちゃんの力になる」
「ありがとう。世界を救う、と言ったが、これからすることを言うと――」
アヤメは自身が腰に差していたもの――反りの入った
「この地の陰陽の調和を崩そうと目論む、『
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