4-8

 危うく手袋をはめずに出走するところだった。

 検量室からパドックまでの道中で風早に指摘されていなかったら、僕はそのまま本馬場入場していたかもしれない。その後に気付いたところで、そこから手袋を取るために戻ることなどできるはずもなかった。

 手袋をはめないこと自体は別に違反ではないし、そこはそれぞれの騎手の自由だが、僕は手袋に慣れてしまっているから、手袋がない違和感で本調子が出せない、ということだけは避けたかった。そしてそれで負けたともなれば、いろんな人に顔向けできなくなる。それこそ普段温厚な神さんや五十嵐いがらしさんからも、もしかしたら見切りを付けられるかもしれなかった。

 そんなことを考えながら、手袋をはめつつ再び検量室から出ると、ふと神さんのこんな声が聞こえてきた。

「お、馬場永ばばえいじゃん」

 見ると、検量室前にいる神さんが、他の調教師らしき人に声をかけている。その神さんの傍らでは、五十嵐さんが風になびく髪を右手で抑えていた。

「何だ、お前か」

 馬場永と呼ばれたその人は、神さんを軽くあしらうようにそう言った。怒っているのか、それとも普段からそうなのか分からない鋭い視線からは、「また面倒な奴に絡まれた」とでも言いたげな雰囲気が放たれている。

「あの、神先生。そちらの方は?」

 ふと五十嵐さんが神さんにそう尋ねた。すると神さんは、馬場永と呼ばれた人の肩に手を置きながら、にやにやと笑って五十嵐さんにこう言った。

馬場ばば 永一郎えいいちろう。俺は馬場永って呼んでますけどね。俺の同期で元ライバルです」

「俺はお前をライバルと認めた覚えはないぞ」

 馬場さんは神さんと目を合わせないようにしながらそう言った。

「そんな固いこと言うなよ」と神さんが言うと、馬場さんは肩に乗った神さんの手を振り払う。どうやら、神さんの態度が気に食わないようだ。神さんは驚きながら、少し悲しそうな表情をする。それを見て、馬場さんは「ふん」とそっぽを向いてしまった。それを傍らで見ていた五十嵐さんが、女神のような微笑を浮かべながら馬場さんに近付いていく。

「初めまして。私、ロッキーロードの馬主をしております、五十嵐いがらし まいと申します」

 そう言って、五十嵐さんは自分の名刺を差し出す。

「これはご丁寧にありがとうございます」と、馬場さんはその名刺を受け取る。そして今度は、馬場さんが名刺を差し出しながらこう言った。

「日本中央競馬会調教師の馬場 永一郎です。先ほどは見苦しいところをお見せしてすみませんでした」

「いえ、とんでもないです」と言って、五十嵐さんは両手でその名刺を受け取り、バッグの中へしまった。そして五十嵐さんは微笑を浮かべたまま、馬場さんと話を続ける。

「それにしても、神先生の同期の方とお話しできるなんて嬉しいです」

「それはどうも。ところで、神はきちんと社長のご意向に添えておりますでしょうか。彼、かなりの自由人なので」

「おい」と、神さんが間髪入れずにそう言った。

「ええ、問題ありません」と、五十嵐さんは女性特有の上品な笑い声をこぼしながらそう言った。

「むしろ神先生にはお世話になってばかりです。レース後に毎回馬の様子を確認してもらってますし、何より私のお気に入りの騎手をずっと乗せてくれていますから。ロッキーも矢吹くんを気に入ってるみたいなので、神先生には本当に感謝しかありません」

「そうですか」と、馬場さんは五十嵐さんに返事をする。でもその表情は、決して笑顔と呼べるものではなかった。すると馬場さんは、その鋭い目をさらに細めながら、呟くようにして五十嵐さんにこんなことを言った。

「まあ私からすれば、なぜそんな転厩ばかり繰り返してきた騎手を信用できるのか、甚だ疑問ではありますけどね」

「え」と、五十嵐さんは口から声を漏らす。馬場さんは続けて話し始めた。

「そもそも鞭を使わない時点で甘えだとは思いませんか。飴だけを与えていては、人も馬も自堕落になる。だからこそ飴と鞭のバランスが重要なんだ。それなのに鞭を使わないとは、せっかくの真剣勝負をなめているとしか言えないでしょう。こちらは本気で勝ちに来ているんだ。思い出作りなら他でやってもらいたい」

「なあ、さすがに言いすぎじゃないか、馬場永」

 神さんはそう言って、五十嵐さんの肩をぎゅっと抱く。

「大丈夫ですか」という神さんに、五十嵐さんは「はい。すみません」と、震えるような小さな声でそう答えた。その五十嵐さんの顔からは、すうっと血の気が引いている。神さんは口元こそ笑っていたけれど、馬場さんに発したその声は、敵意を含んだ低音だった。

「何だ、もしかして怒っているのか」と、馬場さんは神さんにそう尋ねる。

「怒らせるようなことを言った覚えはないが、もし無礼があったのなら謝る」

「お前、オーナーさんを顔面蒼白にさせといてよくそんなことが言えるな」

 神さんは馬場さんに、嫌味たっぷりにそんなことを言う。どうやら、神さんは怒りを通り越してもはや呆れているようだった。

「俺は事実を言ったまでだが」と、馬場さんはきょとんとした顔をしながらそう答えた。

「そりゃお前にとってはな」と、神さんは呆れたと言わんばかりに馬場さんに返事をする。

「そもそも他人の弟子を貶してる時点で失礼だとは思わねえのかよ、お前は。確かにあいつはまだまだだけどな、これでも社長が信頼してくれている騎手なんだぞ」

「その『まだまだ』がいけないんだよ」と、馬場さんはさも当然のごとくそう吐き捨てる。

「勝利というのは『強さ』の絶対条件であり、王者としての義務だ。甘ったれた騎乗ばかりしているお前の弟子が、簡単に手にしていいものなんかじゃない」

 神さんは馬場さんのその言葉を聞いて「へえ」と呟くと、少し口元をにやつかせながらこう言った。

「お前、やっぱ面白いくらいにつまんねえ奴だな」

「何が言いたい」と、馬場さんはさらに目を鋭くしながら神さんにそう尋ねる。それに答えるように、神さんは馬場さんにこんなことを言った。

「俺の考えはこうだ。勝利ってのは挑戦者としての証明であり、誰しもに与えられた権利だ。別に否定しても構わないが、お前の意見を押し付けても俺は聞かないからな」

 すると馬場さんは、今度は「ふん」と鼻で笑うように息を吐き捨てると、神さんに向かってこんなことを言った。

「お前が『挑戦者』を語るようになるとは。かつての〈天才〉も地に堕ちたものだな」

「いい加減にしてくれませんか」

 その瞬間、僕はふと馬場さんに叫ぶようにそう言ってしまっていた。直後に馬場さんは、その鋭い目をこちらに向ける。神さんと五十嵐さんも、驚いたような表情をしながら僕の方に振り向いていた。僕は馬場さんの視線に一瞬びくっとしてしまったけれど、そのまま三人のいる方へ歩を進める。

「矢吹、お前控室に行ったんじゃねえのかよ」

 神さんが驚いたように慌ててそう言うと、馬場さんは「矢吹?」と呟きながら、もう一度僕の方を見た。

「すみません、ちょっと忘れ物しちゃって」

 神さんにそう言った後で、僕は馬場さんの方に向き直る。

「どうも、神 祐馬厩舎専属騎手の矢吹 遥です。先ほどは正直なご感想をいただきありがとうございました」

 大人げもなく僕がむすっとしながらそんな皮肉を言うと、馬場さんは「聞いていたのか」と言いたげに眉をひそめる。そして馬場さんは一瞬の間を置いてから「ほう、君が神の弟子か」と呟くと、鼻から一度大きく息を吐いてから、僕に向かってこう言った。

「師弟そろって俺の何に不満があるのか分からないが、機嫌を損ねてしまったなら謝ろう」

「謝らなくて結構です」と、僕はほぼ反射的にそう返事をしてしまっていた。

「勝利が挑戦者の証明だということを、ロッキーの実力で見せつけるだけなので」

 その瞬間、馬場さんは怒ったかのように目元をぴくりと動かした。直後に五十嵐さんの表情がぱっと晴れていく。一方、神さんは「よく言った」と言わんばかりに、いたずらっぽい笑顔を満面に浮かべていた。

「あの、お取り込み中すみません」と、ふと僕の隣の方から声が聞こえた。

 振り向くと、早乙女が少し困惑したような表情を浮かべながら立っている。桃色の胴体に黄色い玉霰の模様が描かれ、腕には黄色の二本輪がある勝負服を着た早乙女は、白いヘルメットと鞭を両手に持ちながら、僕らの様子をうかがっているようだった。

「馬場先生、今日の騎乗は……」と早乙女が尋ねようとすると、「ああ、悪いな風花ふうか」と、馬場さんはそれに被せるようにそう言った。

「すまないが、そこにいる神の弟子と一緒に控室まで行ってくれないか」

「しかし」と早乙女が呟くと、「指示なら調教の段階で出したはずだ。それに従って乗ればいい」と、やや乱暴に吐き捨てるように馬場さんが言う。早乙女は少し驚いたような表情を一瞬した後、渋々といった様子で「かしこまりました」と返事をした。

「行こう、早乙女」と、僕はむすっとしたまま思わずそう言ってしまっていた。

「はい」と早乙女が返事をする。そして僕と早乙女は、そのまま騎手控室へ向けて歩き始めた。

「二人とも、無事に帰って来いよ」

 ふと、神さんが僕らにそう言う声が聞こえた。

「気を付けてね」と、五十嵐さんの声もする。でも今の僕には、それにいちいち返事をするほどの心の余裕がなかった。

 ふと見上げると、空は一面灰色の雲で覆われていた。

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