4-6

「やっぱり、カコノローレルって相当強いんですよね」

 清水さんがそう尋ねると、難波さんが「せやな」と返事をした。

「昨日の追切の時点でかなり仕上がってたらしいからな。確か、最初の二〇〇メートルのタイムが、えっと……」

「十一秒一」と神さんが言うと、難波さんが「せやった」と声を漏らした。そして難波さんは話を続ける。

「そんでもって、一八〇〇メートルを走破したタイムが一分四六秒代やったらしいねん。これを毎回の追切で出してたそうやから、やっぱ牝馬とは思えんよな」

「うええ」と、清水さんは嫌そうな顔をしながらそう呟いた。一瞬だけ調教スタンドに静寂が流れていく。

 今日の調教を一通り済ませたところで、僕たちは『スプリングステークス』へ向けての打ち合わせを行っていた。僕の隣には清水さん、そしてテーブルを挟んで向かい側に、神さんと難波さんが座っている。そして神さんは、やっぱりいらついているのか、少し俯き気味になりながら眉をずっとひそめていた。

「ん?」と、ふと清水さんが呟く。「でもローレルって、確か短距離適性でしたよね。一八〇〇メートルに出走するのは、距離的に長いような気がするんですけど」

「うん、それは僕も最初に思ったことなんだけど、それでも出走させるっていうことはつまり、それだけの自信があるからなんだと思う」

 僕がそう答えると、清水さんは「自信、ですか」と、その言葉を噛みしめるように呟いた。

「まあ、相手方が強気になるのも当然やろ」と、言い加えるように難波さんはそう言った。

「何たって、ローレルの父親はエイカンエンペラーやからな。母親のヨザクラも二冠牝馬なわけやし、その二頭の血を継いだ娘が、現時点で四戦四勝ともなれば、そりゃ〈無敗の女帝〉も伊達やないわ」

「そんなあ」と、清水さんは半ばあきらめたように、ため息を吐きながらそう言った。

〈無敗の女帝〉。

 いつの頃からか、ローレルはそう呼ばれるようになっていた。無敗三冠馬の父からはスタミナと末脚の鋭さを、『桜花賞』と『オークス』を制した母からはスピードと加速力をそれぞれ受け継いだ。その配合が、牝馬とは思えない強さを生み出したといってもいいだろう。

 今までの競走成績から見て、短距離向きと言われるのも無理はない。ただ、前走は一六〇〇メートル、つまり短距離とは呼べないレースであるにも関わらず勝ち切っている。

 これは僕の予想でしかないけれど、ローレルの適正距離は、おそらく中距離だ。

 そしてそうだとすると、ローレルの快進撃はむしろここからなのかもしれない。あくまで僕の考えだから、当たっている可能性は低いと思うけれど。

「ああ、もう、さっきから聞いてりゃローレルのことばっか言いやがって」

 ふと神さんが、堪忍袋の緒が切れたように大声を出した。僕も清水さんも難波さんも、驚いた表情のままで神さんを見つめる。そんな僕らのことなどお構いなしに、神さんは続けて話し始めた。

「せっかくクラシック街道まで来れたんだぞ。今さら弱気になってどうする。今の矢吹とロッキーなら、充分戦えるほどの実力があるはずだろ。それなのに何だよ、みんなローレルにばっか注目しやがって」

 珍しく感情的になる神さんを前に、僕と清水さんは何も言うことができなかった。一瞬後に難波さんが、ふと神さんにこんなことを尋ねる。

「もしかしてお前、まだロッキーが『ローレルの脇役』扱いされたこと根に持っとるんか」

「え」と、僕は思わず口から声を漏らした。

「当然だろ。何か文句あんのか」と神さんが吐き捨てるように言うと、難波さんはため息を吐いた。そして、まるで小さい子どもに諭して聞かせるような口調で神さんにこう言った。

「あのなあ、神。確かにお前の気持ちも分かるで。ただな、あの記者たちも悪気があって言ったわけではないねん。クラシック前哨戦に無敗の牝馬が出走するってなったら、そりゃそっちの方に注目するに決まっとるやろ」

 もしかして、神さんがいらついていた理由って……。

「それでも俺は認めねえぞ」と、神さんがさらに声を荒げる。

「だいたいなあ、言い方ってもんがあんだろうが。そんなに脇役って言いたいなら、こちとら『ごめんなさい』って言われるまでメール送り付けてやるからな」

「クレーマーか、お前は」と、難波さんが間髪入れずにそう言った。ふと隣の清水さんに目をやると、清水さんは肩をぷるぷると震わせながら、両手で口を覆っている。二人のやり取りを見て、何とか笑いをこらえようとしているらしかった。

「しゃあ、お前ら手え出せ」

 ふと神さんはそう言うと、テーブルの真上に右手を伸ばして突き出した。

「何やねん、急に」と言いながら、難波さんは神さんの手の上に右手を重ねる。その上に僕は同じように右手を重ねると、最後に清水さんの右手が、僕の手の上に重なった。神さんはそれを確認すると、僕たちに向かってこんなことを言った。

「いいか、相手が〈無敗の女帝〉だろうが関係ねえ。俺たちは、ロッキーの強さを見せつけてやるだけだ。『スプリングステークス』、絶対に勝つぞ」

「おう」と僕らは同時に叫ぶと、重ねていたそれぞれの手を一気に空の方へと伸ばす。見上げれば、そこには雲一つない快晴が広がっていた。

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