4-5

 土の中に命を吹き込む春の息吹が、ふわりと頬を撫でていく。

 午前六時の馬場開場とともに、僕らは北調教馬場に向かい、一八〇〇メートルのダートコース内に入る。そこを一周してこいというのが、神さんからの指示だった。

 三月十七日、木曜日。三日後に迫った『スプリングステークス』に向けて、僕はロッキーの調教を行っていた。バンテージを脚に巻くようになってから、ロッキーはすこぶる快調に走れているような気がする。それどころか、以前よりも走るのが上手くなったような感じがした。

 感じる。

 ロッキーが地面を蹴る蹄のリズム。前に出ようとする闘争心。呼吸と鼓動。馬体に宿る熱。それらが鐙を伝って一気に僕に押しよせてきた。

 風になっているのは空気じゃない、僕たちの方だ。

 そうして一八〇〇メートルを走り終え、少しずつロッキーの速度を落としてから、クールダウンを兼ねてダートコースの外を歩かせた。その後で僕は、ロッキーを調教スタンドまで向かわせる。そこに神さんと清水しみずさんが待っていた。ロッキーを止め、清水さんがリードを付けたのを確認してから下馬すると、神さんが「お疲れ」と言いながら、右手を軽く挙げて僕の近くまで来た。

「どうだ、ロッキーの調子は?」と、神さんは僕に尋ねる。

「問題ないと思います。昨日の追切の時と変わらないくらい速く走れてましたし、脚の怪我が治ってから少し丈夫になったような気もしますね」

「そっか」と、神さんは少し俯きながらそう呟く。ふと後ろを振り返ると、ロッキーは清水さんに優しく顔を撫でられながら、耳をぴんとこちらに向けていた。

「まあ、問題なさそうならそれでいいや。追切のタイムも悪くなかったし、あとは矢吹の戦術次第だな」

 神さんの言葉に「はい」と言いながら、僕は神さんに違和感を覚える。

 何だか、いつもよりも声に張りがないような気がした。だからといって、小声なのかと言われればそうでもない。むしろ、いつもより少し乱暴な感じの言い方をしている。ぶっきらぼうに吐き捨てるような、そんな言い方だった。

 もしかして、いらいらしているのか?

 だとしたら、いったい何に……。

「あの、神さん」と、僕は思わず尋ねてしまっていた。

「何だ」とでも言うように、神さんは僕の方を向く。一瞬だけ神さんの瞳に映った獰猛さのようなものに驚きながら、僕は何とか次の言葉を紡ごうとした。

「その、何かあったんですか」

 神さんは「?」を頭に浮かべたような顔をしながら、「いや、特に何も」と答える。

「そうですか」と、僕は呟くように返事をした。

「あ、そうだ。悪い、ちょっと忘れ物したから、取りに戻る。もうすぐ関根せきねがボイジャー連れて来ると思うから、そしたらボイジャーの調教始めててくれ」

「分かりました」と僕が言うと、「よろしく」と言いながら、神さんは厩舎まで足早に戻っていった。

「神さん、何かあったんですか」と、清水さんがふと僕に尋ねてきた。

「さあ。分からないけど、とりあえずボイジャー来るまで待ってようか」

 僕がそう言うと、清水さんは「そうですね」と言って微笑んだ。

 すると突然、ロッキーが「僕も混ぜて」とでも言うように、僕に鼻を寄せてきた。僕がロッキーの顔を撫でると、ロッキーは耳をぴんと横に広げる。そうしながらふと反対側にいる清水さんの方を見ると、清水さんはなぜかロッキーに対して頬を膨らませているように見えた。羨望の眼差しをロッキーに向けながら、清水さんはきゅっと左手で僕の袖をつかむ。

 それを知ってか知らずか、ロッキーはこれ見よがしに僕に顔を擦り寄せる。すると清水さんは「あ、ずるい」とでも言いたげな表情で、僕の袖を引っ張り始めた。お気に入りのおもちゃを取り合う時の姉弟喧嘩って、もしかしたらこんな感じなのだろうか。

 というより、何なんだろう、この状況は。

 もしかして僕、本当におもちゃにされてる?

 そんなことを思っていると、「すみません、お待たせしました」と叫びながら、関根くんがボイジャーを連れてきた。何も知らないと言わんばかりの、暢気でのどかな声だった。

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