4-3
「突然すみません」と言いながら、
「いや、それは別にいいけどさ、どうした急に」
神さんがそう尋ねると、及川さんは「あ、いえ、その……」と呟いて、そのまま黙り込んでしまった。話の切り出し方を思案しているのか、視線が斜め下を向いている。
「まあ、立ち話も何だし、せっかくだから寄って行けよ」
神さんがそう促すと、及川さんは「あ、いえ、大丈夫です」と、焦るかのように早口で断った。
「そんな長話するつもりで来たわけじゃないので」
そう言う及川さんの声は、少しずつ小さくなっていく。そして及川さんは、きまり悪そうにまた視線を斜め下へと向けてしまった。数秒ほどの沈黙の後に、及川さんは意を決したような表情で、神さんに向けてこんなことを言った。
「俺、騎手やめます」
「え」と、僕は思わず口から声を漏らした。
「丹羽さんが、神さんの同期だったということを聞きました」と、及川さんは続ける。
「その丹羽さんを、俺は間接的に殺めてしまったかもしれない。そんなことが、今後の騎手人生でもう一回起こるかもしれないって考えると、俺、怖くて怖くてたまらないんです」
及川さんはそう言いながら、苦虫を潰したような表情を浮かべる。それと同時に、握りしめた拳に少しずつ力が入っていくのが分かった。
「だから、俺は騎手をやめます。それをどうしても、神さんに伝えたくて」
「そんな」と、僕はふとそう呟いていた。
僕はまだ、及川さんに何もすることができていない。ずっと及川さんに相談に乗ってもらってばかりだ。こんな僕の話を、及川さんはどうして真剣に聞いてくれたのか、よく分からなかったけれど。
それなのに、後輩として何もできないまま、こんなことになるなんて。
「やめた後はどうするつもりなんだ?」
そんなことを思っていると、神さんが及川さんにそう尋ねていた。
「そうですね」と、及川さんは呟く。「どこかの牧場で、馬の世話でもしようかなって思ってます。俺、やっぱり馬が好きなので」
「そっか」と、神さんは呟いた。「まあ、そういうことなら俺に異論はない。それがお前の覚悟だろうからな」
「止めないんですか」と、僕は思わず神さんにそう言ってしまった。
いや、もしかしたら「叫んだ」という方が適切かもしれない。
「止める義務も理由もねえよ、俺たちには」
神さんはそんな僕とは反対に、冷酷ともいえるような平静さでそう返した。
「ありがとう、矢吹」と、及川さんは僕にそう言った。「でも、止めないでくれ。俺はもう、そうするって決めたんだ」
そうして、及川さんは神さんの方に向き直り、深く頭を下げながらこう言った。
「開業してから一年の間だけでしたが、お世話になりました。このご恩は一生忘れません」
それから「矢吹」と言って、及川さんはもう一度僕の方に向き直った。
「お前ならどんな大舞台にだって行ける。だから、俺の分まで走り切ってくれ」
その言葉に、僕は何も返すことができなかった。そして何も言い出せない数秒間の沈黙の後に、及川さんは「それでは、失礼します」と言って、厩舎の入口へ向けて踵を返した。
「及川さん」
気が付けば、僕はそうやって及川さんに向かって叫んでいた。
「矢吹」と言って、神さんは咄嗟に僕の前に右腕を伸ばす。振り向くと、神さんは「何も言うな」とでも言うように、首を横に二、三回ほど振った。
僕はそうやって何も言うことができないまま、ただ及川さんを見送ることしかできなかった。少しずつ遠ざかっていくその背中が、いつもより小さく感じたのは、僕の気のせいなのだろうか。
天高く陽は昇っているはずなのに、季節の変わり目の風はやけに冷たかった。
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