4-2

 他の厩舎の馬の追切を終えて戻ってくると、そこに神さんの姿があった。馬房の入り口の辺りで、難波さんや長谷川はせがわさんと話し込んでいる。黒い背広とネクタイを身に着けたままの神さんの髪は、いつもの天然パーマよりもさらにぼさぼさしていた。

「おう、矢吹くん」

 長谷川さんは僕を見つけると、いつもの大きい声で僕に呼びかけてきた。

「ちょうどよかった。神さん帰って来たぞ」と、長谷川さんは僕に手を振ってくる。僕はその声に引き寄せられるように、神さんの方へと駆け寄った。

「お疲れ、矢吹」と、神さんはいつものように右手を軽く挙げて言う。でもその声には、いつものような覇気が感じられない。もしかしたら神さんは、それを隠そうとしているつもりなのかもしれなかった。そんな神さんに、僕は返事の代わりに軽く会釈をする。

「神、ほんまによかったんか」と、難波さんは神さんに声をかけた。「始発の新幹線で直帰したばっかなんやろ? 今日くらい休んでもええんやで」

「ありがとう、難波さん」と、神さんは難波さんにそう返した。「でも、ここは俺の厩舎だ。調教師の俺がいなきゃ何も始まらないだろ」

「せやけど……」と難波さんが言いかけると、神さんは少しだけ間の抜けた微笑を、にやりとだらしなく浮かべながらこう言った。

「それに、職務怠慢だって上層部へ密告されたらたまったもんじゃないからな」

「うちの厩舎に、そんなことする奴はいないと思いますけど」

 ふと長谷川さんがそんなことを呟いた。

「分かってる。あくまで冗談だよ」

 そう言いながら、神さんはまたふにゃりと笑う。でも、神さんが口から漏らす言葉の一つ一つには、やはりいつものような声の張りがないように感じた。

 やはり、『共同通信杯』での丹羽にわさんの落馬は、神さんにとってもショックだったのだろうか。

「それで、どうだったんですか。その、丹羽さんの葬儀」

 僕の口から、ふとそんな言葉が溢れ出た。

 しまったと思い、僕はふと難波さんの方を見る。難波さんは僕のことを「それ、今は聞かん方がええんとちゃう?」と言いたげな目で見つめていた。

『共同通信杯』での落馬事故。それに巻き込まれた丹羽さんは、意識不明の重体のままだった。すぐに病院に運ばれたものの容体は一向に回復せず、二十日の日曜日、今年最初のGⅠ競走『フェブラリーステークス』が行われている最中に、そのまま還らぬ人になったという。神さんはかつての同期として、その葬儀告別式に参加してから、始発の新幹線に乗って厩舎に帰ってきたところだった。

「別に、大したことなかったよ」

 ふと神さんがそんなことを言った。

「え」と、僕らは思わず口から声を漏らした。

「あいつの寝顔を見れただけでも、俺からすれば充分だ」

 そう言った後で神さんは、「まあ、あいつには似合わないくらい安らかな顔だったけどな」と言いながら、笑い声を鼻から少しだけ漏らした。そのまま神さんはネクタイを緩め、背広を脱いでワイシャツ姿になる。そして背広を右腕にかけると、静かに深く息を吐いてからこう言った。

「よし、みんなに心配かけちゃったことだし、今日から俺、完全復活ということでやっていきますか」

 独り言にしてはやけに大きい声だった。でも、誰かに向けた言葉でもない。

 もしかして神さんは、自分に向けて言っているのだろうか。

 ふとそんなことを思っていると、長谷川さんが厩舎の入り口の方をちらりと見た。

「あの、神さん」と、長谷川さんは神さんに呼びかける。

「その前に、うちの厩舎に来客のようです」

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