第四章 無敗の女帝

4-1

 じんさんがいなくなってから三日が経過した。

 それでも僕らは、いつも通りに調教をしなければならない。そして僕は今、『春麗ジャンプステークス』に出走するカシスオレンジの調教を行っていた。午前七時の馬場開場とともに、僕らは北調教馬場に向かう。一三七〇メートルの障害専用コースを二周半してこいというのが、難波なんばさんからの指示だった。

 二月二十三日、水曜日、天皇誕生日。神さんはふと急に思い立ったかのように、三日前に愛知県豊明市へと向かっていった。そんな神さんの代わりに、難波さんが調教の指示をしてくれることになった、というわけだ。

 そんなことを思い出していると、カシスがちょうど走り終えたところだった。そうして少しずつカシスの速度を落としてから、クールダウンを兼ねてダートコースの外を歩かせる。その後で僕は、カシスを調教スタンドまで向かわせた。

 調教スタンドには、難波さんと川名かわなさんが立っていた。僕がカシスを止め、川名さんがリードを付けたのを確認してから下馬すると、難波さんが「お疲れさん」と言いながら、右手を軽く挙げて僕の近くまで来た。

「タイムはどうでした?」

 僕は難波さんにそう尋ねる。

「悪くないと思うで」と、難波さんは返事をした。「三分四五秒八。最後の六〇〇メートルが三六秒ぴったりってところやな。何もなければ、このままでも充分勝てるやろ」

「そうですか」と僕は呟いて、ふとカシスの方に視線を向ける。カシスは走破後の興奮がまだ収まらないらしく、しきりに首を縦に振っていた。現役競走馬としてはベテランの八歳馬ながら、未だにやる気は衰えてないようだった。

矢吹やぶき、神のことが気になるんか」

 そんなことを考えていると、難波さんがふと僕にそう言った。

「え」と、僕は思わず口から声を漏らした。

「何かぼけっとしとるから、そうなんかなって」

「すみません」と僕が謝ると、「いや、謝らんでもええけどさ」と、難波さんは微笑のような苦笑を浮かべた。

「そうだよ、矢吹くん」と、川名さんがカシスの鼻を撫でながら僕にそう言ってくれた。カシスは「もっと撫でて」と言わんばかりに、川名さんに鼻を押し付けている。

「俺だって、神さんがいないと何か張り合いねえなって思ってるもん」

「ただ、それでもやるべきことはせえへんとな」

 そう言って、難波さんは僕と川名さんを交互に見た。

「神がいようがいまいが、俺らがやるべきことは変わらん。今週末のカシスの出走に向けて、しっかりと調整していくだけや」

「はい」と、僕と川名さんは同時に返事をする。

「よろしい」と、難波さんが笑顔でそんなことを言ってくれた。それでも、吹く風は冷たさを帯びたままだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る