3-12

 僕は鞍を胸の前で両腕に抱えて、そのままデジタル式の計量秤の上に乗った。

 五七・〇キログラム。

 制限重量に過不足なし。そのまま僕は、検量室前で待つ神さんと五十嵐さん、それから清水さんとロッキーの元へと向かう。でも、僕の気持ちはそんなに晴れたものではなかった。

 検量室のモニターで、僕はジャックジャッカルが馬運車へと運ばれていくところを見る。

 でもジャッカルの周りには垂れ幕が掛けられていた。あんな光景、僕はもう二度と見たくない。

 あれは間違いなく、ジャッカルが安楽死した証拠だった。

 予後不良だと診断されたのだろう。走れないどころか、もう起き上がれないくらいに骨が折れていたのかもしれない。丹羽さんも意識不明の重体らしかった。

 もしかしたら、丹羽さんもこの世ではないどこかへと逝ってしまうのだろうか。そんなことを考えただけで、悪寒のようなものに背筋を支配される感覚に襲われた。

及川おいかわ、大丈夫か」

 検量室の前に出たとたん、神さんがそう叫ぶ声が聞こえた。

 顔を上げると、検量室前の地下馬道の片隅で、及川さんがふらふらしながら歩いていた。神さんと五十嵐さんが、及川さんの近くに駆け寄る。そのすぐそばでは、ロッキーが「どうしたの?」とでも言いたげな表情で、及川さんのことを見つめていた。清水さんはそんなロッキーを撫でながら、及川さんのことを見つめている。

 それを見て、僕も思わず及川さんに駆け寄った。

「及川さん、大丈夫ですか」

 僕がそう声をかけると、及川さんは僕の両肩をぐっとつかんでぶんぶんと揺らしながら、僕にこんなことを言ってきた。

「どうしよう、矢吹。俺、丹羽さんのこと死なせちゃったかもしれない」

「え」と、僕らは思わず口から声を漏らした。及川さんは、あふれる涙をこらえる気もないままにこう言って続ける。

「俺、ミライに騎乗してたんだけど、目の前にいきなり丹羽さんが倒れ込んできて、それでよけようと思ったんだけど間に合わなくて、少し横にずらすことはできたんだけど、そん時にミライが、何かを踏んづけたような感覚があって、振り返ってみたら、そこにヘルメットが外れた丹羽さんの頭があって……」

 そこまで言うと、及川さんは耐えきれなくなったのか、嗚咽しながら涙を流す。何かを言おうとしてはいるけれど、それが何なのか、よく聞き取ることができなかった。

 突然、場内放送のチャイムが流れる。

「東京競馬第十一レースの払戻金をお知らせいたします。

 単勝、2番、三五〇円。

 馬連、1番、2番、四九九〇円。

 馬単、2番、1番、五〇一〇円。

 三連複、1番、2番、7番、二八六八〇円。

 三連単、2番、1番、7番、一〇七九〇〇円でした」

 やがて場内放送が終わると、僕らの周りの空気は、重苦しい静寂に包まれる。耳鳴りがするほどに、鬱陶しい静けさだった。

 すると突然、ロッキーが及川さんに鼻を近付けた。そして匂いをかぐような仕草をすると、ロッキーは涙に濡れる及川さんの頬を嘗め始める。及川さんはそれに驚いたのか、いったん泣き止んでからロッキーの方に振り向く。するとロッキーは嘗めるのをやめ、何をするでもなく、ただ及川さんのことをじっと見つめた。そのまなざしは、いつか入厩直後に清水さんに見せたような、等身大の温もりを孕んでいた。

「とりあえず、涙拭きましょ」

 そう言って、五十嵐さんは肩に下げたバッグからハンカチを取り出した。

「これでよければどうぞ」と言って、及川さんにそれを手渡す。

「ありがとうございます」

 及川さんはそう言うと、目元をハンカチで覆いながら涙を拭っていく。そして今度は、神さんが及川さんにこう言った。

「誰も悪くない」

「でも……」と及川さんが言いかけると、神さんはさらに語気を強めてもう一度言った。

「誰も悪くない。だから、そんなに自分を責めるなよ。な?」

 そう言って、神さんは及川さんに向かって、にっこりと微笑んだ。

「そうですよ。誰も予測できなかったことですし、仕方がないと思います」

 それに続けて、清水さんが及川さんを励ますようにそう言った。

「それより、今夜矢吹さんと五十嵐さんが一緒にディナーに行くそうなので、連れて行ってもらったらどうですか。そうすればきっと、気持ちが軽くなりますよ」

 清水さんがそう言うと、五十嵐さんは女性特有の上品な笑い声で笑った後で、「りりあちゃんがそう言うなら、仕方ないわね」と言って、バッグから財布を取り出す仕草をする。

「よし、じゃあ今夜は及川くんが食べたいとこに連れてってあげる。どこがいいかしら」

「え」と、及川さんは思わず口から声を漏らした。「いいですって。どうして俺なんかのために、そんな」

「みんな、及川さんのために出来ることをしたいんですよ」

 僕はそう言って、及川さんを慰めようとした。

「及川さんが今、どれだけつらいのかは分かりません。でも、つらいということだけは分かります。だから、及川さんの役に立ちたいんです。僕だって、こんなに迷惑かけてばかりの後輩ですけど、それでも、及川さんがつらい時は助けてあげたいんです」

 僕がそう言うと、及川さんは止めていた涙を再びあふれさせて、僕に抱きつきながら泣き始める。僕は及川さんの背中をさすり、「大丈夫です。大丈夫ですから」と、つい馬をなだめる時のように呟いていた。

 及川さんの涙と比例するかのように、東京競馬場には、本格的な雨が降り出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る