3-11
降り始めていた霧雨が、発走時刻に近付くにつれ、少しずつ粒っぽくなってきた。霧雨というより、もはや小雨といった方が適切かもしれない。他の人にそんなことを言ったら、「それがどうした」と言われてしまいそうだけど。
「君が矢吹くんだね」
ふとそんなことを考えてながら待避所で輪乗りをしていると、ジャックジャッカルに乗った丹羽さんが、僕に声をかけてきた。さっきまで卓馬さんが着ていた、鼠色に茶色い模様の勝負服を身に着けている。
輪乗りとは、レースに出走する競走馬たちが、待避所やゲートの後ろでぐるぐると周回しながら出番を待つことだ。馬同士の距離が近いので、そこで騎手同士が会話することがよくある。
「はい」と、僕は突然のことに少し慌てながら答えた。
「へえ、神の弟子だっていうからどんなもんかと思ったけど、意外と好青年なんだね」
丹羽さんは僕を見つめながらそう言うと、僕が尋ねるよりも先に、僕が聞きたかったことを教えてくれた。
「ああ、ごめんね、急に。俺は丹羽 一行。神 祐馬の同期だよ」
「え、そうなんですか」と僕が思わずそう言うと、丹羽さんは「今日は乗り替わりだけど、よろしく」と言って、僕に微笑んでくれた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」と、僕は返事をする。
「うん」と丹羽さんがうなずくと、誰に言うでもなくこんなことを呟いた。
「しかしまあ、このタイミングで先生の厩舎の馬に乗せてもらえるなんてなあ」
「丹羽さん、西園寺先生のお弟子さんだったんですね」
僕がそう言うと、丹羽さんは「あれ、聞こえちゃった?」と苦笑しながら、僕にこんなことを言ってくれた。
「今でこそフリーでやってるけど、デビューしてから七年くらいお世話になったかな。そん時は俺もまだ未熟で、重賞制覇なんて夢のまた夢だったけど、その夢が今、叶えられそうだよ。乗り替わりだから、卓馬くんには申し訳ないけど、先生に恩返しできる千載一遇のチャンスだ。このレースを制覇して、俺が成長できたことを証明して、先生には安心してもらいたいんだ。そろそろ定年も近いからね」
「そうだったんですね」と、僕は相槌を打った。「でも、僕だって初の重賞制覇がかかってるんです。だから、僕もここで負けたくない」
「いいね、その闘争心の強さ。神が弟子にしたくなったのも納得だよ」
丹羽さんがそう言った直後、スターターがスタート台に向かって歩いていくのが見えた。
スターターが乗り込み、スタート台はゆっくりと上がっていく。そしてスターターは、ゲートの向こうにいる係員の方を向き、手に持っている赤い旗を掲げた。
ファンファーレが鳴り響いた。ゲート後方で周回していた三歳馬たちが、一頭ずつゲートへと誘導されていく。
「じゃあ、先に行くね」と、丹羽さんは僕にそう言った。「ゴールの向こうでまた会おう」
「はい」と、僕は丹羽さんに返事をした。そうして奇数番の枠入りが終わりかけ、いよいよロッキーも枠入りとなったその時、また会場がどよめいた。
振り向くと、イコマエクスプレスがまた暴れていた。後ろ足を蹴り上げて、ゲートへの枠入りを嫌がっている。
騎手が鞭の柄を使って尻を軽くたたき、落ち着くように促していた。それが収まったタイミングで、係員がもう一度ゲートへ誘導する。しかしそこでまた暴れだし、結局数人がかりでロープを張り、それを後ろから少しずつ近付けることで、ようやく枠入りが完了した。
僕はふと、ロッキーのゲート試験の時にいた暴れ馬を思い出していた。あの時の馬と、イコマエクスプレスは、何だか似た者同士な気がする。
そんなことを思っていると、次にロッキーの枠入りとなった。そして今日もロッキーは、すんなりとゲートに収まっていく。
そうして偶数番の馬たちも順調に枠入りしていき、最後の一頭、12番がゲートに入り、係員が離れる。各馬出走準備が整った。
そしてゲートが開かれた。
「スタートしました」と言う実況とともに、十二頭の三歳馬が一斉に走り出す。東京競馬場第十一レース、芝コース一八〇〇メートルのGⅢ競走、『共同通信杯』の火蓋が今、切って落とされた。
「あっと、イコマエクスプレスが落馬だ。11番イコマエクスプレス、レース開始直後に競走中止。空馬でのスタートとなりました」
そんな実況が響く中、僕はロッキーを5番の後ろにつける。ロッキーはそれで、狙うべき標的を理解したのだろう。相手の真後ろではなく、外寄りの斜め後ろに陣取った。
出だし良好。いい感じだ。
「さあ、第二コーナーを通過しまして、先頭に立ったのは一番人気の5番ジャックジャッカル。鞍上は乗り替わりまして丹羽 一行。西園寺厩舎の競走馬です。
そこから二馬身離れて先行集団、大外に9番ナイストゥミーチュ。二番人気の2番ロッキーロードは真ん中にいた。鞍上矢吹 遥とはこれで三戦目。相性抜群のコンビです。その内には1番セトナイトスマイルがいて現在この三頭が並走中。
中団では大外から10番シノノメウィンドが追走中。真ん中には7番ワタシノミライ。内から交わそうとしているのはもう一頭のシノノメ、3番セイントシノノメです。
おっと、ここで11番イコマエクスプレスが大外から上がってきた。三番人気でしたがスタートと同時に落馬。現在競走中止となっています。
後方集団も三頭が並んだ。大外12番ヤタノキングダム。内には4番ビューティーライフがいて、真ん中にはやや遅れて6番ファストスパイク。
そして最後方には8番リュウセイブレイブ。この位置から追い上げを狙います」
ロッキーは依然5番を睨んでいる。でも、2枠2番はさすがに内側に寄りすぎているかもしれない。理想は大外から狙える位置、中枠から外枠にかけての位置が良かったけれど、抽選で決まったものは仕方がない。
今はそれより、ロッキーをどう動かすかだ。今は先行集団の真ん中。ここからどうやって前に出ようか。
僕はふと、ロッキーが自分から仕掛けようとしていないかを確認する。
大丈夫だ。いたって冷静に走っている。いつ仕掛けても問題なさそうだった。
「各馬向こう正面を回って、これから第三コーナーに差し掛かろうというところ。先頭は依然ジャックジャッカルですが、おっと、ここで一頭動いた。9番ナイストゥミーチュが早くも仕掛けました。既に一馬身差。大外からジャックジャッカルに迫っていく」
よし、今だ。
手綱をしごくと同時に、待ってましたと言わんばかりの勢いで、ロッキーが加速を始める。少し早めのタイミングだが、ここで外側に出なければ、おそらく終盤で囲まれる。そうなったら、抜け出す術はもうなかった。
これで、先頭二頭をまとめて狙える。
「第三コーナーの大ケヤキを通過。ナイストゥミーチュ並びかけた。しかしジャックジャッカル強い。依然先頭で逃げている。ここで先頭二頭のたたき合いか。その外からロッキーロードも来た。ロッキーロードも並びかける。先頭三頭、激しい先頭争いだ」
負けない。
僕は手綱にさらに勢いをつけて、素早く振り下ろす。
自然と手綱を握る手に力が入った。
内に5番、並んで9番。ロッキーのことなど見ていない。
絶好のチャンスだ。
少し早いけど、ここで仕留める。
目標捕捉、追撃準備完了。二頭まとめて交わしてやる。
そう思った直後だった。
突然、ロッキーの横に一頭の馬が迫ってくるのを、僕は視界の隅で確認した。
僕は思わずそちらへ振り向く。
11番、イコマエクスプレス。
そう認識した時には、11番はもう先頭二頭と頭を並べていた。
でも、11番の騎手は落馬してしまったのだから、着順なんてもう関係なくなったはず。
けど何だろう、この嫌な予感は。
「残り六〇〇メートルの標識を通過。各馬第四コーナーを抜けまして、さあ最後の直線に差し掛かった。依然先頭の三頭が固まっている。その外側には競走中止のイコマエクスプレスですが、この三頭を交わしていくのか」
その瞬間、ロッキーは一瞬だけ、踵を返すようにブレーキをかけた。
直後、ロッキーの目の前を、イコマエクスプレスが横切っていく。
「あっと、イコマエクスプレスが大きく内側に斜行。先頭集団が巻き込まれた」
真ん中を走っていた9番が、イコマエクスプレスの煽りを受けて、大きく内側に崩れていく。
「あ」と、僕は思わず声を漏らしそうになった。
まずい、その内側は――。
「ナイストゥミーチュが衝突した。9番ナイストゥミーチュが5番ジャックジャッカルと衝突。先頭二頭が巻き込まれた。騎手が二人とも落馬している」
僕は思わず、内ラチ沿いを振り返り見た。
9番はすぐに起き上がり、ゴールを目指して走り始める。
ただ、5番は起き上がっていなかった。
その近くには、ターフの上に放り出された、落馬した騎手らしき姿がある。
あれは、丹羽さんか?
そう思った直後、倒れた5番をよけようとする後続の馬群に紛れて、その姿は完全に見えなくなってしまっていた。
進もう。進まなきゃ。
「残り四〇〇メートル。ここで先頭が2番のロッキーロードに替わった。内からセトナイトスマイル。セトナイトスマイルが迫ってきた。そのままロッキーロードに並びかける。二頭が並んだ。再び先頭争いのたたき合いだ。
残り二〇〇メートル。ロッキーロード差し返した。ロッキーロード再び先頭。そのままぐんぐん前に出ていく。セトナイトスマイル懸命に食い下がる。しかしロッキーロードだ。強い。あっという間に交わした。ロッキーロード、そのまま一馬身差を付けて今、ゴールイン。
ロッキーロード四戦三勝。春のクラシック街道に歩を進めました。一八〇〇メートルも何のその、鞍上矢吹 遥、そして神 祐馬厩舎待望の重賞初制覇へ導きました、ロッキーロード。一分四八秒一というタイムでの決着となりました。
しかし第四コーナーを抜けた直後でした。競走中止した11番イコマエクスプレスに巻き込まれる形で、9番ナイストゥミーチュが5番ジャックジャッカルと接触。二頭とも落馬で競走中止となっています。
そしてジャックジャッカル、未だに立ち上がれません。鞍上丹羽 一行も立ち上がれない。今、救急車が近くに止まりましたが、意識は大丈夫なんでしょうか。ジャックジャッカル立ち上がれるのか。ここで馬運車も到着。人馬ともに容体が心配ですが、無事であることを祈るばかりです。
十二頭中三頭が落馬という、思いもよらない結末を迎えた東京競馬場。第十一レースはGⅢ、『競走通信杯』。一着は2番ロッキーロード。二着に1番セトナイトスマイル、三着7番ワタシノミライとなりました。四着、五着は写真判定です。確定までお手元の勝馬投票券をお持ちのままでお待ちください。
以上、東京競馬第十一レース、三歳GⅢ競走『共同通信杯』の模様をお伝えいたしました」
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