3-9

 明らかに落ち着きのない馬が一頭いた。

 8枠11番、イコマエクスプレス。まだ完全に白くなっていない芦毛あしげの馬体の持ち主だ。

 そしてさっきから、パドックの周回中に何度もきょろきょろしたり、厩務員さんに甘えようとして拒否されたりしている。緊張や不安の表れなのだろう。馬体が大きいので、暴れた時にどう対応するべきか、僕は一瞬それを考えてしまった。

「止まあれえ」という、係員のこぶしを効かせた号令とともに、周回していた出走馬たちが立ち止まる。騎手たちは観客たちに一礼をした。その後で、それぞれが騎乗する馬の方へと駆け寄っていく。

 ロッキーは2番のゼッケンを、鞍と一緒に背中に乗せている。白字で番号と馬名が書かれた、深緑色のゼッケンだった。今回から脚の保護のために、ロッキーはバンテージと呼ばれる、靴下のようなものを両前脚に装着している。細く小さいが、したたかでたくましいその馬体に乗せてもらおうとしたその時、パドックの中でざわめきが起こった。

 何だろうと思って振り返ると、イコマエクスプレスが騎手を乗せたまま、前脚を宙に浮かべながら嘶いている。騎手が騎乗しているはずの背中が、一気に絶壁と化していた。騎手と厩務員がなだめようとしても、今度は後ろ足を蹴り上げたり、スキップのように背中を波打たせたりしていて、落ち着く気配がない。

 もしかして、あの騎手に騎乗されるのが嫌なのだろうか。

 そんなことを思い、ふとロッキーの方を振り返ると、ロッキーよりも清水さんの方がそれを怖がっているようだった。

「矢吹さん」と、清水さんは助けを求めるような表情で僕にそう言った。

「大丈夫だから、落ち着いて」と、僕は清水さんに言う。「清水さんが不安がってたら、ロッキーだって不安になっちゃうよ」

 僕はなるべく笑顔を心がけながら、清水さんに言い聞かせるようにそんなことを言った。

 上手く笑えていただろうか。

 でも、それを聞いた清水さんははっとした表情になり、「そうですよね」と言って、一度深呼吸をした。そして僕と目が合うと、僕は軽くうなずいた。そして清水さんはすぐさま右手で僕の左足を持った。「せーの」の合図で清水さんが僕の左足を持ち上げると同時に、僕は鞍を掴み、右足でロッキーの背中をまたぐ。そのまま僕は鞍の上に乗り、手綱を握りながら、両足をそれぞれ鐙にかけた。

 そして僕は、背中の上からロッキーの首筋を撫でる。馬をなだめる時のいつもの癖だった。

 でも、やはりロッキーはいたって冷静だった。もしかしたら、視線はイコマエクスプレスを追っていたのかもしれない。それでも、周回を再開する時のロッキーは、真っ直ぐに正面を向いていた。

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