3-8
黒いヘルメットの紐を締めて、左手、右手の順に手袋をはめる。青地に緑の襷模様が描かれた勝負服のファスナーを上げ、首元まで閉めてから、僕は検量室を後にした。袖は黒地で、緑の一本輪がある。
ふと顔を上げると、検量室前に神さんと
何だろうと思い、しばらく遠くからその様子を眺めていると、ふとスーツ姿の神さんが振り返り、「おう、矢吹」と軽く右手を挙げる。それと同時に、五十嵐さんと長身の騎手も、続けて僕の方に振り返った。よく見ると、その騎手はどことなく神さんと似ているような気がした。
二月十三日、日曜日。骨折した僕とロッキーが、『京都2歳ステークス』を辞退した後に目標としたのが、今日行われるメインレース『共同通信杯』だった。芝一八〇〇メートルのGⅢ競走で、クラシック戦線に向けた前哨戦と一つとして位置付けられている。同じく前哨戦として先月行われた『京成杯』では、風早のダンスが一着を取っている。だから僕としては、何としてもそれに続きたい一心だった。
僕が三人のいる方へ駆け寄ると、長身の騎手は僕を見て微笑みながら、「こんにちは」と声をかけてきた。僕がぺこりと会釈をすると、神さんは僕と長身の騎手を交互に見ながらこう言った。
「あれ、そういえばお前ら初対面だっけ」
「矢吹くんの反応を見ればわかるでしょ、
長身の騎手が食い気味にそう返した。
「祐兄?」
僕がふとそんなことを呟くと、長身の騎手は「こほん」と咳払いをしてから、僕にこんなことを言ってきた。
「初めまして、矢吹くん。兄がいつもお世話になっております。神 祐馬の弟の
「あ、どうも」と、僕は慌てて返事をした。「神 祐馬厩舎の専属騎手をしています、
「知ってる。さっき祐兄から聞いたから」
そう言って、卓馬さんはまた僕に向かって微笑む。その直後に、今度は神さんの方に向き直り、睨むような目つきになった。
「てか祐兄、また兄弟いることをお弟子さんに伝えなかったでしょ」
「だって聞かれてねえんだもん」
神さんは言い訳をする子どものように、視線を泳がせながらそう言った。
「大丈夫よ、矢吹くん。私もさっき聞いて驚いたばかりだから」
五十嵐さんが微笑に似た苦笑を浮かべながら、僕にそう言ってくれた。
「ちなみに四人兄弟の中で俺が末っ子で、祐兄は三男だよ」
卓馬さんも五十嵐さんに続けて、僕にそんなことを教えてくれた。そのどちらに対しても、僕は「はあ」という中途半端な返事しか出来なかったけれど。
「そんで、その四男坊が俺のところに何の用だ」
少しぶっきらぼうな言い方で、神さんは卓馬さんにそう尋ねた。
「いや、祐兄の厩舎の騎手ってどんな人なのかなって思って」
卓馬さんがそう言うと、神さんは「え、それだけ?」と卓馬さんに言う。
「そう、それだけ」と、卓馬さんはそう返した。「んじゃ、当初の目的は果たしたから、俺はそろそろ
「何だそりゃ」と神さんが呆れたように言うのをよそに、卓馬さんは五十嵐さんに「いきなりお邪魔してすみませんでした」と言って、ぺこりと頭を下げた。
「いえいえ、楽しいお話をありがとうございます」と、五十嵐さんは女神のような微笑みを浮かべて、卓馬さんにそう言った。
「それから、矢吹くん」と、卓馬さんは僕の方に振り返る。
「はい」と、僕は少し背筋をぴんと伸ばした。
「ターフの上で、また会おうね」
そう言って、卓馬さんは先にパドックの近くの騎手控室へと向かっていった。
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