3-7

 初春の陽が少しずつ空を照らし始めた頃、僕はロッキーのいる療養用の馬房の方に足を運んでいた。そこにある人影は、いつもの清水しみずさんのものではなく、背が少しだけ低い成人男性の姿をしている。一六〇センチしかない僕よりは、五センチくらい高かったけれど。

「おはようございます」

 僕がその人影に声をかけると、その人はこちらに振り返りながら、「あ、矢吹くん。おはよう」と、流暢な日本語で返してくれた。

 一月一日、土曜日、元日。この日はあんさんが、一人で六頭分の世話をしていた。うちの厩舎では、十二月二十九日から一月三日まで、厩務員も休暇を取るようにしている。それでも馬の世話はどうしてもしなければいけないので、その期間の管理馬の世話と厩舎の見回りを任されたのが安さんだった。というより、安さんが立候補してくれた、といった方が適切だろうか。

「明けましておめでとう」

 安さんはロッキーの世話をいったん止めて、僕の方に軽く会釈をする。

「おめでとうございます」と、僕は会釈をしながら返事をした。それに続けて安さんが「今年もよろしくね」と言ったので、僕はまた会釈をしながら「こちらこそ、よろしくお願いします」と返す。

「骨折はもう大丈夫なの?」

 ふと安さんは、僕にそう尋ねてきた。

「はい、激しい運動以外は、もう何をしても問題ないそうです」

「それは良かった」と言って、安さんはふわりと微笑んだ。「ロッキーも順調に回復してるみたい。もう少しで、また走れるようになるかもね」

 そう言って、安さんはロッキーの方をちらりと見る。そんなロッキーはさっきから、僕の方に鼻を近付けてきていた。僕は右手でロッキーの顔を撫でながら、僕はふと疑問に思ったことを口にしていた。

「安さんは、せっかくの休暇なのに良かったんですか。もちろん、馬の管理をしてくれるのは嬉しんですけど、それで休みを棒に振ることにならないかなって」

「いいんだよ。馬は可愛いし、どうせ誰かがやらなきゃいけないから」と、安さんは笑いながらそんなことを言った。

「それに、中国だとお正月じゃなくて、春節の方が盛り上がるからね。爆買いがあの時期に起こるのも、そういうことだよ」

「そういえば、安さんって四川省の出身でしたっけ」

「そうだよ」と、安さんは答える。「もともと中国に進出してる日系企業に入りたくて、日本に留学してきたからね」

「すごいですね、エリートじゃないですか」と僕が驚きながら言うと、安さんは少々照れながら、「そうかな。でも、そう言ってくれてありがとう」と言って、少しだけはにかんだ。

「でも、じゃあ何で、安さんは厩務員を選んだんですか」

 僕がそう言うと、安さんは「そうだね」と言いながら、数秒の間考え込み始める。そしてその後で、「強いて言えば」と言ってから、安さんは僕にこんなことを言ってくれた。

「運命を感じたからって言えばいいのかな。子どもの時に、一回だけ香港の競馬を観たことがあるんだ。確か、『香港ヴァーズ』だったかな。それを引退レースにしていた日本の馬が、それで一着になったんだ。競馬のことなんて何も分からなかったけれど、綺麗な馬だなって思ったよ。

 それで留学先の大学に、競馬が好きな友だちがいたから、一緒に見に行こうって誘われたことがあるんだ。そのレースが『日本ダービー』だった。それで一着を取った馬が、香港で一着になった馬の子どもだったんだよね。驚いたよ。そして、その友だちから後で聞いたんだけど、その馬はその後、史上七頭目の三冠馬になったらしいんだ。

 その時、これは運命なんじゃないかって思ったよね。日系企業に入るための留学だったから、卒業してしばらくはそっちではたらいてたんだけど、どうしても競馬のことが忘れられなくて、二、三年くらい前に会社を辞めて厩務員になったっていう感じかな」

 それを聞いて、僕はしばらく何も言うことができなかった。

 本来、中国では香港以外でのギャンブルが禁止されている。それなのに、そんな中国で生まれ育った安さんにも影響を与えていたとは思いもしなかった。

 競馬のギャンブルという側面はどうしてもぬぐえない。でも、それ以上の潜在的な、というよりも本能的な魅力が競馬にはあるんじゃないかと、僕は改めてそんなことを思った。

 突然、何か柔らかいものが僕の左頬に触れる感覚がした。そちらの方に振り向くと、ロッキーが僕の顔を嘗めている。ロッキーの鼻息が皮膚に当たる感覚が、何だか少しくすぐったかった。

 僕が右手でロッキーの顔を撫でると、ロッキーは耳を横に広げる。僕はそんなロッキーのことが、やはり何だか愛おしく感じられた。新年最初の日は、爽やかな青色で澄み渡っていた。

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