1-6

 そこには、黒鹿毛くろかげの小柄な馬が一頭いた。

 午前十一時半、今週のレースに出走する競走馬の出馬投票を終え、自転車で厩舎に戻ってくると、既に馬房の前に馬運車が一台停まっていた。その後ろには、厩舎スタッフのみんなが、何かを取り囲んでいるように見える。おそらく、あの中に今日入厩する新入りの馬がいるのだろう。

 僕は馬房の近くに自転車を停める。それに気付いたのか、長谷川さんがこちらに振り返り、「おう、矢吹くん」と大きな声で手招きをしてくれた。僕はそれに引き寄せられるように、馬運車の後ろに駆け寄っていく。

「小さいですね」と、川名さんが呟いた。

「女の子みたいですよね」と、安さんがそれに共感するようにそんなことを言う。

「確かに、身体が小さいような。それに細いですし」と関根くん。

「可愛い」と、感嘆の声を漏らしていたのは清水さんだった。

「なあ神さん、こいつ本当に牡馬ぼばなんすか」と、馬のリードを持っている清田さんが、半信半疑でそう尋ねる。

「間違いない」と神さんが答えた。「血統登録証明書にも、牡馬として正式に登録されている。ちなみにだが父親がナインティナインで、母親がエメラルドリリーらしいな」

「でも……」と、まだ疑いがぬぐいきれない清田さんに、神さんは子どもっぽいいたずらな笑みを浮かべながらこう言った。

「じゃあ、こいつの股間にぶつがあるか、触って確かめてみるか?」

「触りませんよ、馬鹿らしい」と、清田さんはため息混じりに拒絶した。

「馬だけに?」と、安さんが呟く。

「黙れ」と、清田さんがどすの効いた声で制した。

「父親がナインティナインってことは、長距離血統ですか」

 ふと長谷川さんがそんなことを呟いた。

「せやろな」と、難波さんが答える。「ただ、母親の方は中距離での実績の方が上や。どっちかと言うと、中距離も走れる長距離馬、みたいなもんかもしれんな。飛び抜けて化け物級というわけではなさそうや」

 そんな話を聞きながら、僕は無意識のうちにその馬の前に近付いていた。

 馬がこちらに振り向く。ゆっくりと僕が右腕を前に伸ばすと、馬は僕の腕に鼻を寄せ付け、においをかぎ始める。顔を撫で始めると、じっとしてそのまま撫でさせてくれた。

 人懐っこい性格であることが、それだけで分かる。警戒心の強い子なら、簡単にこうはいかない。

 馬が耳を横に広げていた。リラックスしているという感情表現だ。

 もしかしたら、僕はこの時、思わず「よしよし」と呟いてしまっていたかもしれなかった。

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