承転結

 

「!」

 いや、それは声というより、音に近かったと思う。その男子は既に声変わりが始まっている、色白で背の低い男子だった。苗字は大庭だったと思う。周りに聞こえなかったのはきっと――彼の声が低かったからだろう。一番後ろの席の、一番窓側。存在感が薄く、体育の授業や校外学習はいつも休んでいた。何でも肌が弱いから、半袖を着ているところもみたことがない。その声が私に対して向いていることに気付いたのは、五秒程経った後のことである。

「ほら」

 と、静かに彼は、書いた紙を見せた。そこには「この紙を見ることなく死にたい」と書かれていた。

「……どうして、そう思うの?」

 どうしてか、周りから聞こえてくる声が無になったような気がした。騒然としていた教室の雑音が、気にならなくなった。そのことに私が気付くのは、全てが終わった後からである。

「もうすぐ死ぬから」

 良い笑顔で、彼は続けた。

「……病気なの?」

「ううん、どうなんだろうね?」

 そう言って彼は、自分のシャツの袖をそっとまくった。透き通るように白い肌である。私は日焼けしやすい方だったので、女子的には羨ましいと思っていた。

 けれどその羨望が見当違いだったことを知る。

 袖の中に潜む彼の腕には。

 青く、青く、時に紫に、また青く、少々赤く、続いて青く、再び赤く線が入り、引っ掻かれたような痕とその溝を埋めるように付いた、皮膚の病とはどう見ても思えない赤黒い瘡蓋が。

 

「っ…………」

 思わず、息が止まった。

 リストカットという言葉は知っていた。手や足などをカッターで切り、見せつける行為だ。それが婉曲的な自殺だということも、勿論知っていた。ただ私は、そこまでを行動に移せてはいなかった。今でこそ言えるけれど――なんだかんだと言いながら、痛いことが怖かったのだろう、痛みを伴わずに死にたいなんて、甘えたことを考えていたのだと。

 この瞬間、私は悔いた。

「自分で……やったの?」

 むしろそうであってほしいという願いを込めて、私は聞いた。

「ううん。お父さんとお母さんが仲悪くてね、喧嘩した後で、二人共ぼくを殴るんだ。ストレス解消って奴みたい」

 疑いようのない、虐待の痕だった。

 ストレス解消? まるでサンドバックではないか。

 言葉を失う私に、彼は続けた。

「ここの痣は、お父さんが殴ったもの、こっちの傷はお母さん。お母さんはよくカッターを使うんだよね、切って、ぼくが痛がるのを見て、喜んでる。自分より下でいてほしいんだってさ、そうやって言うことをきかせて、ぼくに無茶をさせるんだ。ほら、ここだけ紫になっていて綺麗だよね」

 淡々と、服の袖から見える地獄を、私に紹介した。

 喉から、変な音が鳴った。

 壊れている。

「そ……そんなの、痛くないの?」

「痛い、のかな? 分からない」

 分からない? それは傷を表す言葉としては、あまりに悲惨だった。そうだ、痛いとか酷いとかそういう次元じゃない。彼から目を背けたかった。

 その視線を察したのか、彼はそっと袖を戻した。

 呼吸が止まっていたのを思い出して――息を吸った。背中からどっと、汗が出てきた。

 私は今、何を見ていたのだろう。どうしてか、何か言わなくてはという衝動に駆られた。言葉がうまく出てこない。じっと彼は、私の方を見ていた。

「それで、辛いから……し、死ぬの?」

「ううん、違うよ」

 彼は否定した。

「辛いとか、もう分からないんだ。多分あの家にいたら、もうすぐ死ぬと思う。だからその前に、自分で死のうって思ったんだ。死にざまは自分で選びたいんだよね」

 狂っている。

「二十歳になって、皆がここに戻ってきた時、ぼくのタイムカプセルをきっと誰かが勝手に開くと思うんだ。そこで皆に気付かせてあげるんだ。死んで、いなくなって、皆に教えてあげるんだ。世の中は綺麗に見えて、実はこんなにも醜くて汚くて傷だらけなんだよって」

 狂っている。

「ぼくには、もうそれくらいしかできないんだ。ほら、線路に飛んで自殺した人を見て『迷惑を掛けずに死ね』って皆言うじゃない? ぼくはその通りだと思う。ぼくはせめて、世の中のためになることをしたいんだよ。生きることでなく、死ぬことによって」

 狂っている。

 狂っている。

 狂っている。

 もう耳を塞ぎたかった。目を逸らしたかった。頭を抱えたかった。泣いて逃げ出したかった。こんな人が目の前で生きていることを、信じたくなかった。でも眼前に、彼はいる。生きている。何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言っているのだろう、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言って、何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を言何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何何!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!。

 私はそのまま意識を失い、気が付いたら保健室のベッドの上にいた。

 大庭恒はその日を最後に、学校に来なくなった。



(続)

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