第2話: 幽霊「思ってたのと違う……」



 ──結局、夕方になってもタマ子は目を覚まさなかった。




 よほど疲れていたのだろうか……舞香はちょっと心配していたが、孫娘の涼風は特に気にした様子もなく、何時もの事だと笑って終わらせた。



「ありがとうございます、わざわざお昼を用意してもらって……」

「いいのいいの、老いらくの何とやらってやつ。長期滞在とかになると困るけど、3,4年に一回ぐらい有るか無いかだし、父さんも母さんも気にしてないから」


 ──だから、何度もお礼を言わなくていいよ。



 そう答えた涼風は苦笑する。賄いみたいなモノとはいえ、わざわざ用意してくれた事に頭を下げれば、涼風はそう言うだけで……本当に気にしていないようだった。



「ところで、こっちにはどれぐらい滞在予定なの? まさか、解決するまで居るとか?」



 そうして、笑顔のままに尋ねられる。少々言葉に棘を感じないわけでもないが、まあ、涼風の立場から当然といえば当然だろう。


 傍から見た限りでは、舞香のような富裕層には見えない。まあ、舞香のような金持ちがそこらにゴロゴロいたら、それはそれで怖いけれども。


 数日ぐらいならともかく、タマ子が満足するまでずっと無料宿泊(+食事代もタダ)ともなれば、顔をしかめるのは当たり前である。



「そうですね……数日調べてみて何も分からなければ、私たちの手には負えないと判断し、タマ子さんに話すつもりです」



 それを分かっているからこそ、伊都はあえて今回の宿泊日数を数日と区切った。


 何時まで居るか分からないならまだしも、数日ぐらいで出て行くと分かれば、多少なり心象も変わるというもの。



「舞香さんも、それでよろしいですか?」

「うん、私もあまり長く外泊は出来ないから、数日って終わりを区切って貰えるのは助かる」



 あえて舞香にも断言させれば、涼風は何処となく安心した素振りをみせた。


 まあ、涼風からすれば先の短い祖母の数少ないワガママみたいなものだ。出来ることなら叶えてやりたいが、背に腹は変えられないというやつだろう。



 ……で、だ。



 夕方でも暑いことには変わらないが、さすがに17時を越えれば少しばかり熱気はマシになる。


 タマ子がいつ目を覚ますか分からない以上、無駄に待ち続けて貴重な時間を潰すのは非効率。なので、まずは地図に記された場所を確認する事にした。



 ──かつん、かつん、と。



 アスファルトを、伊都が履いている長い一本歯が小気味よく叩いて行く。日が登っている時間が長い時期だから、辺りはまだ昼間のように明るい。


 向かっている最中、黙って案内するのも退屈だし……というわけで、涼風が色々と説明というか、お話をしてくれた。


 地図に記された場所まで、徒歩で30分ほど。


 そちらの方面は、子供が遊ぶような場所は公園ぐらいしかないので、涼風も今はどうなっているかそこまで詳しくは知らないとのこと。


 ただ、涼風が分かる範囲では、だ。


 駅や学校や店などが有る方向とは真逆の場所で、そちら側に友人なり用事なりが無いとまず行かない、本当に地元民しか知らないような場所らしい。


 昔は河川が伸びていたらしいが、それは本当に昔の事で、涼風が子供の時には河川など跡形も無く、現在では古い畳屋があるとのこと。


 確かに、新しい方の地図を見れば、なるほど、赤く囲われた場所には畳屋がある。



 つまり、最低でも20年以上前には河川は埋め立てられているようだ。



 また、涼風も子供の頃に気になって友達に聞いて回ったらしいが、やはりその場所に『歩道橋』なるモノが有る事を知っている者は、1人も居なかったらしい。



「だから、私は正直お婆ちゃんの勘違いというか、別の場所で見た歩道橋の事を勘違いして覚えているんじゃないかな~……って考えているんだ」



 ……と、いった感じの話をポツポツと語り終えた涼風は……そこで、「……でさあ、話は変わるけど」もう我慢できないと言わんばかりに……チラリと、その視線が伊都の両足に向けられた。



「あの、古都葉ちゃん、一つ聞いていいかな?」

「はい、なんですか?」

「その下駄って……コスプレとかじゃなくて、ガチで履いているの?」

「……がち? とは?」

「伊都ちゃん、本気で履いているとか、日常的に使っているとか、そういうのを聞いているんだよ」



 発言の意味が分からずに首を傾げる伊都に、気怠そうに扇子で顔を仰いでいる舞香が、ポツリとフォローに回る。



 ──今時の言葉は難しいですね。



 思わず、伊都は感心して舞香を見やる。


 その舞香と言えば、「伊都ちゃんは古風な女の子だから……」気にした様子も無く涼風へのフォローに入っていた。



「へ~、それじゃあ、着物なのも?」

「今時の服はどうにも慣れなくて……」

「今時って、むしろ着物の方がよほど面倒でしょ。普段も、その恰好で過ごしているの? 遊びに行くときとか注目集まって大変でしょ?」

「……? 普段着ですから、注目も何もありませんよ」



 素直に答えれば、何故か(少なくとも、伊都にとっては)曖昧な笑みを涼風は返した。



 ……はて? 



 意味が分からずに舞香を見やれば、「伊都ちゃん、今度ショッピングにでも行こうね」舞香は苦笑しつつ……けれども、涼風に対して言い返すような事はしなかった。



(……これは、また私は何かやってしまったのでしょうか?)



 そんな二人を見て、伊都は……内心、軽く肩を落とした。



 ……いちおう、弁明するわけではないが、伊都が疎いのにも理由はいくつかある。



 今でこそ女だが、前世では男であった(それも、数百年以上前の話だが)事から、元々女性のファッションには興味が薄かったから。


 尊き『御方』にて仕えていた時、指導(直接的な言い回しはされなかった)を受けはしたが、修行にばかり注意が向かってしまったから。


 長い間頭おかしいレベルの修行生活(しかも、当人は全く苦にしていない)を続けていたので、そもそもお洒落という考えが頭にはないから。


 他にも、いくつかあるが……いちおう、伊都がファッションに対して欠片の興味も抱かないどころか知識が欠落しているのは、そういう理由からであった。



 ……。



 ……。



 …………で、だ。



 かつん、かつん──っと。


 空が夕焼け空へと移り変わろうとしている最中、特徴的な足音を立てながら到着した伊都たちの前に姿を見せたのは。



「……駐車場になっちゃっているね」



 これまで100回でも200回でも見た覚えのある……コインパーキングであった。


 しかも、全国的に有名な会社のパーキングだ。伊都にも、見覚えがあった。


 とはいえ、他所の県であろうが中身に違いなどない。駐車場の敷地自体は奥行きがあったらしく、8台分停められるようになっていて、現在は2台停まっていた。


 近づいて外から見やれば、いや、見れば見るほどに、ただの駐車場だ。不自然な点など何一つない、よくあるパーキングである。


 周辺の家や店などは、シャッターが下りている。いちおう、空いている店もあるが……休日だからというわけではなく、単純に店じまいというわけか。



「あ~……どうしよっか?」



 さすがに、これは想定外だったのだろう。


 案内しているだけの涼風が、困ったように伊都たちへと振り返る。まあ、無理もないことだ。


 只でさえ手垢の付いた『地図』という使い古された手掛かりしかない現状。その唯一の手掛かりとされていた畳屋すらも、無くなってしまった。


 まあ、その畳屋も、タマ子はおそらく何度か訪問しているだろう。なので、現状では畳屋が残っていたところで、有力な情報が得られる可能性など皆無だろうが……っと。



 ──不意に、伊都の視線が……駐車している車の一つ、運転席に居る男へと向けられた。



 その男は、短髪の耳にピアスをした男である。アロハシャツを着ていて、じーっと……伊都たちを見つめていた。


 ……何だろうか、値踏みをするかのような、粘っこい視線である。



「うわ、何あれ……」



 伊都の反応から視線を追いかけ、気付いた舞香が思わず身を固くする。涼風も薄気味悪く思ったのか、退いて……伊都の傍まで来る。


 そんな二人を他所に、伊都だけは変わらず……黙って、視線を見つめ返す。


 傍から見れば、それはなんとも奇妙な光景である。


 何を言うでもなく、何をするわけでもなく、男と伊都は黙ったまま見つめ合っていた。



「……あ、あの、伊都ちゃん、あの人がどうかしたの?」


 そんな中、暑さもそうだがジワジワと湧き起こる緊張と不安に耐えきれなくなったのだろう。


 思わず、といった様子で尋ねる舞香に、涼風も同意するかのように何度か頷いた。



「いえ、あの幽霊はどうしてあそこに居るのかなあ……と、不思議に思いまして」



 なので、伊都は率直に理由を答えた。



「──はい?」



 当然ながら、舞香は……涼風も、困惑に首を傾げた。


 ただし、その困惑の内容は異なっている。


 舞香の場合は、幽霊が見えない事を自覚しているから。条件が合致すれば見える事を伊都より教えられてはいるが、今がその状況ではないと思っていたから。


 そして、涼風の場合は……単純に、こいつは何を言っているのだという、伊都への率直な不信感から来るモノであった。



 ……でも、2人ともすぐに伊都が嘘を付いていないのだということを察した。



 舞香の場合は、伊都がこのような嘘を言う必要もないし、実際に『力』を持っていることを知っているし体感したから。


 涼風の場合は、伊都と舞香の態度があまりに自然体であったのと……車に乗っている男が不気味過ぎて、『本当なのかも?』と思ったからだ。



 ……とはいえ、だ。



 意味が少しばかり異なるとはいえ、舞香も涼風も、車に乗っている男を見やり……恐る恐るといった様子で、「え、あれ、幽霊なの?」尋ねてきた。



「はい、幽霊ですよ。非常に稀有な事ですよ、あそこまで明確に霊視できない人でも見える状態になっているのは」

「え、あ、その、何で? 私たちにも普通に見えているんだけど……普通は、見えないんじゃなかったっけ?」



 私たち……のところで、舞香の視線が涼風へと向けられ……涼風は一瞬ばかり困惑した直後、激しく首を縦に振る。


 それを、チラリと横目で見やった伊都は……はて、と首を傾げた。



「お二人とも、お忘れですか?」

「……何が?」

「もうすぐ、お盆の時期です。現世うつしよ幽世かくりよの境目が薄くなる時期です」

「……えっと、現世とあの世ってことよね?」

「はい、それ故に、『力』無くとも見えやすくなります。加えて、何時もより戻ってくる死者の数も多い……1人や2人波長が合って見えたとしても、何らおかしい事ではありません」

「……そういう話なの、コレって?」

「そういう話とは?」

「え、いや、聞き返されると、こちらとしても……う~ん……」



 何とも……チョコの匂い漂う箱を開けたら煎餅が入っていたかのような、何とも形容しがたい顔で唸る舞香の姿に、伊都も小首を傾げた。



「……あのさ、アレって本当に幽霊なの? たまたま男が運転席に居るとかじゃなくて?」



 そんなかけ違いのボタンを直そうとしている二人を他所に、涼風は勇気を持って異論を唱えた。


 まあ、確かに、いきなり『あそこの人は幽霊だよ』って言われたって、そう易々と信じられるわけがない。



 何せ、今は昼間だ。



 いや、昼間に幽霊は出ないなんて分からないからそれはいいのだが、今まで幽霊というモノに会ったことがなかったからこそ、涼風の異論は最もであった。



「落ち着いて、よくよく観察してください。生者でないと不自然な点が幾つも見付けられるでしょ?」

「……何を?」



 しかし、そんな涼風の異論も……伊都は、「ほら、例えば……」表情一つ変えずに男を指差した。



「この猛暑の中、『えんじん』を掛けずに車の中に居る。汗一つ掻かずに、顔色一つ変えずに……私だって、暑ければ汗ぐらい掻きます」

「えっ──」

「分かり易いといえば、分かり易いですね……あ、ほら、隠れていた他の者たちも出てきました。見られている事に気付いたようですね」

「──っ!?」



 絶句──そう、絶句である。



 言われてから、気付いた。確かに異常だ、異常過ぎる。


 夕方とはいえ、差し込む西日は相当に熱い。これが日陰ならともかく、視線の先にある車は……ダイレクトに西日が直撃している。


 加えて、西日を真っ向から浴びているというのに、男は全く眩しそうな素振りを見せていない。まっすぐ、伊都たちの方へと視線を向けている。



 しかも、3人も。



 そう、3人だ。先ほど見た時には、運転席に1人しか居なかった。そう、居なかったはずなのに、気付けば社内の男が3人に増えている。


 そして、同じく3人ともが同じく伊都たちへと視線を向けている。


 まっすぐ、西日に眼球が焼かれる事にも気付いていないのか、瞬き一つせずに……黙ったまま、じーっと見つめ続けている。



「なに、あれ、え、何アレ? 何なの、アレは?」



 ぞわぞわぞわ……と。


 改めて実感する、異常な光景。


 声を震わせた涼風が、そのまま全身を震わせる。


 背筋を走る怖気に堪らず腰が引けて、更に駐車場から距離を──。



「──どうしたの、駐車場なんか見つめちゃって」



 ──取ろうとした、その瞬間。伊都たちの背後より、声を掛けられた。




 うぎゃあ、と。




 あまりに突然の事に、涼風もそうだが舞香も乙女らしからぬ野太い悲鳴を上げた。


 当然ながら、声を掛けた瞬間にそんな悲鳴を上げられた……茶髪の男は、困惑した様子で頭を掻いた。



「あー……ごめん。変に驚かせちゃったね」

「あ、あ、い、いえ、すみません、こっちこそ急に……」

「いやいや、気にしないで。ただ、すごい顔で駐車場を見ているから、何か事故でもあったのかなって思って」



 振り返って、自分たちが何をしたかを察したのだろう……客観的に見れば、確かに茶髪男の言う通りだ。


 涼風と舞香は、慌てて茶髪男へと頭を下げる。


 茶髪男も気にしていないのか、手を振って謝罪はいらないと告げると……その視線が、伊都へと向けられた。



「着物姿なんて珍しいね。その年で茶道とかやってるの?」

「いえ、普段着です。貴方こそ、どうしてここに?」

「どうしてって……そりゃあ、君さあ」



 思わず、といった調子で、男は軽く笑った。



「駐車場なんだから、俺の目的なんて分かるでしょ」

「どうして?」

「いや、どうしてって、そこを聞かれても──」

「死した貴方に車など不要では?」



 ──瞬間、男の笑みが止まった。



 合わせて、舞香と涼風の動きも止まった。



 ……沈黙が、流れた。



 遠くより聞こえるセミの鳴き声がしなかったら、さぞ耳に痛みを覚えるような静けさとなっていただろう。


 ゆっくり……そう、ゆっくりと。


 舞香と涼風の視線が……男へと向けられる。そんな中で、変わらず笑みを浮かべたまま固まっている男に対して……伊都は。



「道を間違えてはなりません。貴方は、両親と妹の様子を見る為に来たのでしょう?」



 そう告げて、通せんぼをするようにして男の前に立ち塞がった。



 ……。


 ……。


 …………ぽつり、と。



「──そうだった、俺はもう死んでいたんだ」



 スーッと、男は真顔になった。「よろしい、思い出しましたね」それを見て、伊都は軽く笑みを浮かべた。



「さあ、何時までもこんな所で油を売っている暇はありません。帰省した妹さんが戻る前に、顔を見に行きなさいな」

「ああ、そうだ……その為に、俺は……」



 ──にっこり、と。



 先ほど浮かべた機械的な笑みとは異なる、心からの微笑み。


 ありがとう、その言葉を残して──ふっ、と男は姿を消した。文字通り、影も形も、そこには無くなっていた




 ……。



 ……。



 …………そうして、何も無くなった空間へ、軽く頭を下げていた伊都は、ふう、と息を履いて頭を上げると。




「さて、『歩道橋』の手掛かりを探しましょうか」



 仕切り直すかのように、宣言をした。



「──いや、いやいや、いやいやいや、待って待って待って」



 けれども、そうはならなかった。



「ちょっと待って、本当に、ちょっと待って……整理させて……え、なに、いま、何が起こったの?」



 その前に、涼風が『待った』をしたからである。



「……夢? え、夢かコレは?」



 その顔は、傍目にもはっきり分かるぐらいに青ざめていた。


 小首を傾げる伊都を他所に、舞香だけは……生暖かい目で涼風を見ていた。



 ──分かる……舞香には、分かる。


 ──だって、舞香も通った道だからだ。



 伊都は、基本的に必要でない限りは自己主張をしない。そういう『力』を持っていても、必要でない限りは見せる事はない。


 実際、学校でも伊都が『力』を示したのは、ちょっかいを掛けられた入学当初ぐらい。色々な意味で一目置かれた後は、それ以降は大人しく勤勉な女生徒を続けている。


 風貌などで目立つ要素はあるにせよ、それ以上にはならない理由がソレなのだと、舞香は思っている。


 まあ、舞香の場合はまだ妹の事で心霊オカルトを信じる下地があったけれども、それでも、伊都が本物であると知った時は相当に驚いた。


 というか、妹の件が無かったら、間違いなく眼前の涼風と同じような反応を示していただろう。


 それが分かっているからこそ、舞香は生暖かい視線を向けずにはいられなかった。



「大げさですね……ただ、他人より少しばかり出来る事が多いだけですよ」



 対して、伊都はわかっているのか、わかって……あ、いや、わかっていないね、コレは。



「ごめん、大して交友関係が広いわけじゃないけど、それを大げさの一言で済ませるのは……『本物』って、皆こんな感じなの?」

「ううん、たぶん、伊都ちゃんだけだから安心してね」



 なので、舞香がそっとフォローする。


 伊都と舞香を交互に見ていた涼風は……一つため息を零すと、苦笑と共に……差し出された舞香の手に、握手を返した。



(……はて? この2人、何時の間に仲良くなったのでしょうか?)



 その光景を間近に目撃した伊都は……1人、状況が分からず小首を傾げていた。そんな姿すら、2人の苦笑を深める理由になろうとは……伊都は全く気付いていなかった。



 ……偶発的なキッカケとはいえ、だ。



 はっきりと言葉にはしなくとも、警戒心と猜疑心を滲ませていた孫娘の心を開けたのは……ある意味、不幸中の幸いなのかもしれない。







 ……。



 ……。



 …………さて、話を戻そう。



 思いもよらぬ心霊現象に見舞われた一行の動揺も治まり……まあ、動揺していたのは約2名で伊都は欠片も驚いてはいなかったが……とにかく、話は戻る。



「とりあえず、お二人はコレを持っていてください。いいですね、肌身離さず、ですよ」



 駐車場に入る直前、そう言って舞香と涼風に伊都が手渡したのは……紙幣ぐらいのサイズの『御札』であった。


 札の中央には、『護』の文字が大きく記されている。


 それは読めるのだが、文字を囲うようにして記された……何だろうか、ミミズが這ったような黒い線が走っている。



「……これ、般若心経はんにゃしんぎょう?」



 ジッと札を見つめていた舞香が、ぽつりと零す。「あ、お経なのね……」その後ろで、ははあ、と理解のため息を零す涼風を尻目に、伊都は頷いた。



 ──般若心経は、攻撃の為のモノではない。



 その種類によって内容が異なるけれども、大まかには心や魂の根源、幸福や不幸の本質、それらに対する身や心の置き方を真正面から説いた有り難い説法である。


 エクソシストのように悪魔(悪霊)を直接的に祓い、あるいは攻撃して追い出すような攻撃性はない。


 自身の奥底に溜まった苦しみを少しでも軽くするための経典……それこそが『般若心経』である。


 それ故に、『力』を込めた『般若心経』は癒しであり防御。


 迷い囚われた霊魂を成仏させるだけでなく、悪霊などが襲ってきても、『般若心経』の前では悪しき念は通らず、ひいては身を護る鎧になるわけである。



「その御札は、それほど強力な代物ではございません。とはいえ、この駐車場を出るまでは身の安全を保障出来ます」

「……この駐車場ってそんなに危険な場所なの?」

「今のお二人にとっては、危険が及ぶ可能性があります」



 思わず、といった様子で聞き返す舞香に、「普段は、そうではありません」と、伊都は言葉を続けた。



「言うなれば、波長が合ってしまったのです。特に、今の時期は生と死の境をさらりと踏み越えてしまう事が多いので……用心とでも思っていてください」

「ええ、そんな危険な状態なの!? 今の私たち!?」

「車に乗った男たちが見えたでしょう? アレが見えている時点で、魂の一部が幽世の境に触れているのと同じですから……まあ、不用意にこちらから手を伸ばさなければ、何の問題もありません」

「……え~っと、私は怖いからここで待っていても……あ、いや、やっぱり一緒に行くよ、ここで1人残される方が怖いから」



 舞香は別として、この場においては案内役の涼風が残ろうとしていたが、周囲を見回し……ぶるりと背筋を震わせた。


 さて、全員が行くと決まれば、ぐずぐずしている必要はない。



 ──行きますよ。



 そんな軽い言葉と共に、かつんかつんと一本歯を鳴らして駐車場内へと入る伊都。その後ろを、少しばかり慌てながらもおっかなびっくり付いてくる舞香と涼風。



 しかし……そんな二人の緊張を他所に、目的地はすぐだった。



 考えてみれば、当然だろう。駐車場自体はそこまで広いわけじゃないし、そもそも、駐車場の前に有ったのは地域密着型の畳屋だ。


 ものの1分と経たない内に、コンクリートの壁にまで到着した伊都はピタリと立ち止まる。そして、そこから二度、三度と左右を向いて……くるりとUターンをする。


 その後ろを、舞香と涼風の二人は付いてゆく。そして、入口にまで戻ってきた辺りで……また左右を見やった後、くるりとUターンをする。



 傍から見れば、なんとも奇妙な光景だ。



 何せ、客観的にも美少女だと判断される着物姿のおかっぱ頭の少女と、モデルかと見間違うほどに美人な女と、2人にとまでは行かなくとも可愛い顔立ちをしている女。


 そんな3人が、何をするわけでもなく駐車場内を行ったり来たりするわけだ。そりゃあ、奇妙に映って当たり前である。


 これまた当然ながら……同じ所を行ったり来たりするだけの伊都の姿に、涼風はもちろんのこと、舞香も困惑し始める。


 けれども、そのままたっぷり6往復……有無を言わさずに、2人を連れて往復を続けた伊都は。



「どうも、ここは変ですね」



 駐車場の中央にてピタリと足を止めると……そう、2人に告げた。



「……何が、変なの?」



 ビクビクと少しばかり腰が引けている舞香(涼風も同様)の姿をチラッと見やった伊都は……かつん、とアスファルトを蹴った。



「ここは、どうにも場が悪い。いえ、悪いなんてものじゃない。まるで、つい先日まで処刑場だったかのように場が悪い」

「つ、つまり?」

「霊的な意味で、非常に質の悪い土地ということです。それも、にわかには信じ難いぐらいに……涼風さん、ここは本当に畳屋だたのですか?」



 問われた涼風は、「え~っと……うん、畳屋だよ」困惑しながらも……確かに、ここが元畳屋であると答えた。


 伊都が、改めて尋ねたのにも理由がある。


 それは、『力』を持つ伊都だけが気付ける事だったのだが……非常に、穢れて澱んでいるのだ。


 そう、ここだけが穢れて澱んでいる。思わず、己の勘違いかと6往復してしまうぐらいに、体感しているのに、信じられないと思うぐらいに……ここは穢れきってしまっている。



(これは……いったい、何が起こっていたのですか?)



 我慢しきれなくなった伊都は、堪らず袖口で鼻を隠す。


 『力』を持たない舞香と涼風には普通の駐車場(一部、男の霊が居るけれども)に見えているだろうが、伊都は違う。



 伊都の目には……いや、伊都の五感では、地獄が広がっていた。



 地獄から逃れようと足掻いているのに、壁が隔てて進めない。向こう側が透けて見えるというのに、そこへ届かない……亡者から放たれる気配や臭気。



 ……実際に、亡者が出て来ているわけではない。


 しかし、そう思ってしまうほどに、ここは悪い。



 今しがた思わず口にしてしまったかのように、つい先日まで処刑場だったかのように、ここには死の気配が……暗く澱んだ気配が、へばり付くように溜まっていた。


 こんなのは……伊都も、目にするのが相当に久しぶりな光景であった。しかも、久しぶりなのはそこだけではない。



(これほど異質な気配が有るというのに……どうして、中に入るまで気付けなかった?)



 そう、最初に伊都が抱いた疑念は、ソコである。



 というのも、だ。



 伊都が『御方』の御許にて修行を重ねていた時、そういう場所……つまりは処刑場へと連れて行ってもらった事が何度かある。


 その時、伊都が目にしたのは……様々な冷たい想いが積み重なってへばりついた……この駐車場内のような、澱んで穢れた土地の姿だった。



 どんな理由であれ、だ。



 たとえ本人に非が有ろうとも、死を目前にした者が、もはやこれまでと己の死を受け入れ、潔く刑が処されるのを待つかと言えば……そんなわけがない。


 特に、同じ人間の手によって命を奪われようとしている、その時は……様々な事を思い浮かべるだろう。


 誰も、好き好んで外道に堕ちたわけではない。中には当人の持って生まれた素質がそうさせた者もいるだろうが、ほとんどの場合は環境が現状を作る。


 同じことをやって、同じだけの成果を得られるというのは、幻想である。結局は、持って生まれた素質と運によって大きく左右されるわけだ。



 故に、人は恨み嫉み、憎悪の念を吐き出す。俺とお前ら、どこに違いがあるのか、と。



 これが、時には人を苦しめる猛毒になってしまう。そして、処刑場のように、幾度となく吐き出された憎悪が積もれば、それはヘドロのようにその地にへばり付いてしまう。


 もちろん、そうなってしまったからといって、永遠にそのままなわけもない。



 何故なら根本的に、死者の念よりも、肉体が持つ力の方が圧倒的に強いのだ。



 仮に死者の念の方が上であるならば、この世はとっくに死者で溢れ返っていただろう。けれども、現実はそうなってはいない。


 如何な強い念とはいえ、活力に溢れた生者が行き交いするだけで霧散し消滅してしまう。結局のところ、死者の念はその程度のモノでしかないからだ。


 とはいえ、条件が重なれば生者を殺すほどの念にはなる……けれども、だ。


 言い換えれば、弱かろうが死者の念……吐き出された憎悪は、確かに存在している。散らされた分だけ、そこがどういう場所なのかが遠目にも分かってしまう。



 ──少なくとも、伊都ほどの『力』を持ってすれば、米粒ほどにしか映らない距離ほどに離れていても、その存在を感知出来る。



 なのに、伊都は気付けなかった。遠目どころか、すぐ目の前にまで接近しているというのに、だ。



(……結界、いや、違う。そのようなモノは、周辺にも全く感知出来ない)



 ならば、自然的にそういった念が溜まりやすい場所なのか……いや、それも違う。


 そういう場所は、確かに存在する。


 霊道と呼ばれる幽霊の通り道、あるいは、『曰く付き』という形で良くない所だと大勢に思われている場所、もしくは、様々な理由で一度に大勢が同じ場所で死んだ……等々。


 探せば、そういう場所はけっこう見つかる。なので、珍しいと言えば珍しいが、そこまで珍しいわけでもない……だが、ここは違う。


 何故なら、そういう場所には予兆……すなわち、波紋のように『良くないモノ』が薄くではあるが、中心地より広がっているからだ。


 けれども、コレにはそれが無い。どうしてか、区切られた範囲に留まり、しかも、外からは感知出来ない状態になっている。



 これは……明らかに、自然発生したモノではない。


 ならば、人為的か……だが、そのようにも感じ取れない。



 少なくとも、伊都の目を持ってしても、どのような術を用いてこのような状態を作り出しているのか、まるで見当が付かなかった……と。



「……あの、伊都ちゃん、ちょっといい?」



 ウンウン唸りながら考え事をしていると、舞香より声を掛けられた。振り返れば、舞香は……不思議そうな顔で、止まっている1台の車を指差した。


 それは、相も変わらず多数の幽霊を乗せた車……ではなく、もう片方。そちらには誰も乗っておらず、ある意味、場違いにもポツンと置かれていた。


 いや、良く見やれば、舞香の視線は多数幽霊略して幽霊車にもチラチラ向けられているが……まあ、視線はともかく、指先は、その車へと向けられていた。



「あの車……何か、さっきと変わっていないかな?」

「……? 何処が、ですか?」



 意味が分からず、伊都は首を傾げた。


 伊都が見た限り、先ほどと変わらない。色でも変わったのかなと思ったが……うろ覚えではあるが、そんな感じもしない。



「その……何と言うか、すごく古臭い感じになってる」

「……古臭い?」

「うん、何ていうか……数十年前の、昭和の車って感じ? ごめん、車に関しては全然知識が無いから、上手く説明出来なくて……」

「いえ、私も車に関して無知なので、説明されても分からないと思います」



 ところで……と、伊都は言葉を続ける。



「舞香さんから見て、変わったのはその車だけですか? それとも、そっちも同様に変わっているのですか?」

「うん、車種とかは分からないけれども、そっちも古臭い感じになってる……ねえ?」

「え、あ、うん、何か形が変わってる。昔の車って感じになってる」



 促された涼風も、舞香と同じモノが見えているのか、恐る恐るではあるが、確かに頷いた。



「……お二人には、そう見えているのですか?」

「伊都ちゃんの目に映っているのは、全く変化していないの?」

「はい、全く。少なくとも、言われても首を傾げる程度には……違いが分かりません」



 言われて、伊都は改めて駐車してある二台を見やるが……やはり、先ほどとの違いが分からない。




 これは……いったい、どういう事なのだろうか? 




 とりあえず、位置的に近い方にある幽霊車へと向かう。


 背後にて舞香たちがビクビクし始めたが、構わず近寄り……ニヤリと笑った幽霊の男が、外に出ようとした──ので。



 ──ぱたん、と。



 開き掛けた扉を、強引に閉めた。



 ……。



 ……。



 …………えっ、と。



「貴方たち、まだ悪さはしていないようですね」



 困惑の色が強いのは、状況が分からない後ろの舞香たちか。


 それとも、予想外の対応に目を瞬かせている幽霊たちか。



「とはいえ、これから悪さをしようと……貴方たちからは、そのように感じ取れます……ああ、なるほど、生前から、あまり素行がよろしくなかったようで……」



 そんな、前後から困惑の視線を向けられている……当人は、気にした様子など欠片もなく……ジロリ、とガラス越しに幽霊たちを見つめると。



「では、お聞きします。貴方たちは、どのようにしてこの車の中にいるのですか?」



 率直に、尋ねた。


 当然ながら、幽霊たちの気配がガラリと変わった。それは表情が強張ったのとは違う。これからお前を害するという、暴力の気配であった。


 伊都の言葉通り、生前含めて素行がよろしくなかったのだろう。


 後ろの二人が、ヒッと一歩身を引いた。その反応は、年頃の娘としては当然の反応であった。いや、男であっても、思わず身構えてしまうだろう。



「……先に、言っておきましょう」



 だが、そんな幽霊……いや、今にも悪霊に成ろうとしている3人を前にしても。



「出来うる限り傷付けないようには致しますが……私は、そういう手加減がどうにも苦手でして」



 伊都は、顔色一つ変えずに。



「なので、先に謝っておきます。うっかり、消滅させてしまったら……ごめんなさい」



 心の底から……傍から見れば、本気で申し訳なさそうな様子で頭を下げ……おもむろに、顔を上げた。




  『──全部話します!』




 瞬間、幽霊たちは一斉に頭を下げた。


 幽霊なのに顔を青ざめ……いや、幽霊だから血の気が……まあ、とにかく、だ。



「……あの、どうしたのですか? 本気で頭を下げているのは分かりますけど、いったいどうして急に心変わりを?」


『いえ、マジですみません! 俺たち調子にのってました!』


「……そ、そうですか」



 突然のバトルに発展する前に……あっさり、何事もなく終わってしまった。



 ……。


 ……。


 …………しかし、だ。



『やべえ、マジでやべえ……生きてたら小便ちびってたぐらいにヤバかった……』

『死んでるけど、死んだって実感したの初めて……濡れてないよな? ズボン濡れてないよな?』

『ごわがっだっ……ごめん、おがあぢゃん、おれ、真面目に成仏するから……』



「……あの、ごめんなさい、怖がらせてしまったみたいで」



 はたして、本当に何事も無かったのか。


 些か判断に迷う反応を見せる3人を前に、伊都は……初めて、困惑するのであった。


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