32話 月光


 渇きが私を蝕む。

 例えどれだけ眠りの淵に居ても、渇きは執拗しつように私の前に現れ『満たせ』と囁く。


 異常なまでの吸血衝動。

 今は魔法で強化された部屋に隔離され、私は孤独にひたすらにもがき、苦しむ。

 

 血が欲しい、血が欲しい、血が欲しいッ!

 身体が、心が、声が、細胞があの赤くどろりとした液体を求める。

 喉から手が出る程、理性ですら止められない程の異常で凶悪すぎる衝動…。


 まるで嵐の中に一人放り込まれているような、そんな地獄だった。

 私はただ、嵐が過ぎ去るのをひたすら待つ…いつかこの衝動がプツンと切れることを願って。


「ああ、でも…」


 このままじゃあ、耐えられないかも。

 精一杯で限界、今はなんとか掴まって必死に耐えているような状況だけど…もう、手が離れてしまいそうで…衝動に呑み込まれてしまいそうな状況。

 

 もう、このまま手放しちゃおうかな。


 そうすれば、楽になれるのかもしれない。

 あ、でもユウとあの女ハナに迷惑を掛けるかもしれない…。

 あの女に迷惑掛けるのは良いけど、ユウにだけは掛けたくないかなぁ…だって私を見て凄い泣きそうだし、何より私自身が一番辛いし。


「…………見たくないなぁ、そんなの」


 ぽつりと、空虚の中私は呟く。

 そんなの見たくない。

 好きな人が悲しむ姿なんて…ましてや、一度助けに来てくれたユウが悲しむ姿なんて絶対。


 だから、まだ耐えないといけない。


 こんな衝動、絶対に耐え抜いてみせるから、だからユウ…頑張ってみせるから。


「いいよ、我慢しなくても」

「え?」


 声が聞こえた。

 何度かキスを交わした、好きな人の声。

 お互いに名前を呼び合うようになって、病院まで助けに来てくれたユウの声が。


 声の方に、恐る恐る私は視線を向ける。


「一発ぶん殴ってきたよ!チカ!!」


 相変わらずのバカっぽい笑顔を浮かべて、少しボロボロのユウは小走りで私の元へ駆け寄るとダイブする形で飛び込んでくる。

 ロケットのように飛び出すユウを私は慌てて両手を広げて抱く。

 

 ユウの身体が私の身体と密着しあう。

 相変わらずの子供っぽさでユウはぎゅぅ〜っと両腕に力を入れて強く抱く。

 けど、そんな喜ぶユウと相反して私は、酷く狼狽していた。


「な、え…私、なんで」

「知ってるよ吸血衝動に耐えてるの、もう限界なのも」

「じゃあ、すぐに離れて…!」


 実際、もう耐えられなかった。

 意識を保っているけど、この一瞬にユウの首元を抉り、血を吸うんじゃないかと思うと恐怖が湧き上がり、ユウから逃げようと必死に拒む。

 だけど、ユウは…どうしてか。


「やだ」

「な、なんで…!お願いだからッ!離れろ!!」


 殺したくない、殺したくない、殺したくない!!

 この鋭利な爪で引き裂いて殺すのかもしれない、尖った牙が肌を食い破り、血肉を啜って殺すのかもしれない!!


 そんなの、そんなの絶対嫌なのに!!

 なのにどうして、どうしてユウの事を美味しそうって…!食べたいって思ってしまうの!?


「嫌なのに、お願いだから…逃げて!離れて…構わないでッ!!」


 何度も拒絶する。

 心が痛むけど、必死に拒絶しないと私の精神がもたなかった。なのに。


「逃げないよチカ」


 なんでユウは。


「辛かったね、苦しかったね?もう大丈夫だから…ね?」

「なんで、そんなに優しい顔をするの?」


 私は化け物なのに。

 殺そうとしてるのに!!

 なんで逃げないの?なんでそんな顔をしてるの!!?


「なんでってそれは…」


 少し俯いて、頬が染まる。

 そして、ぱっと顔を上げると子供のようにはにかんで、その口から綺麗な言葉が飛び出てきた。


「好きだから」

「えっ…」


 思いもよらない言葉、私は衝動の事も忘れて一瞬フリーズする。

 ユウはそれを待っていたのか、一気に身を乗り出して柔らかい感触が私の唇に伝った。


「むっ…ん、んぅ」


 何度も交わした口づけ、なのにいつもとは違う謎の違和感。


 仄かに広がる鉄の味。

 探し求めていた渇きの欲求。


 こ、これって…。


「な、なんで…ユウ、ち…血を!」

「ねぇチカ、私絶対に人間に戻してみせるからね…その為なら何だってする。でも、まだ人間には戻せないから…だから」


 ユウが何を言ってるのか分かんなかった。

 でも、もう一度押し付けるようにキスをされて…血が口の中に入り込む。

 欲し続けた私の渇きを満たすもの。

 ユウの血は瞬く間に私の身体を循環し、我慢し続けていた衝動を解放させる。


「だから、私の血を沢山吸ってほしい」


 口元から垂れる赤い雫。

 ユウはふわりと柔らかく優しい聖母のような笑みを浮かべて言った。


「あ、ああっ…あ!」


 沢山、飲んでほしい。

 ユウの言葉が頭の中で何度も反響する。

 一度飲んだせいで、我慢が効かない…!歯止めが効かない!身体が止まらない!!


 衝動が、欲求が私を突き動かすと、私は露わになっていた首筋に牙を向けて…ゆっくりと静かに牙を柔肌に当てる。

 牙の先から伝う…柔らかい感触。

 このまま突き刺してしまえば、血は噴水みたいに溢れてしまうと思うと…すごく興奮した。


「は、はぁっ!はぁっ!!」


 どうしよう、涎が止まらない動悸が止まらない!!

 

 ボタボタと滝のようにだらしなく涎が落ちる。

 息は荒く、全身はエンジンが掛かってるみたいに熱くて…心臓が爆音を立てて脈打つ。


 刺していいの?飲んでいいの?吸っていいの!?吸っちゃうよ!いいの!?


 はぁはぁと荒げた息のまま、躊躇う。

 けど、けどけどけどけどけどけどけど!!


「ほ、ホントに吸っていいんだよね!?」

「怖がらなくて大丈夫だよチカ、吸っていいから…安心して」


 ホントに吸っていいんだ。

 好きな人の血、飲んでいいんだ…。

 この柔らかい肌を突き破ってもいいんだ。


「じゃ、じゃあ…いた、いただきます!」

「うん、食べて」


 ユウの一声と同時に、ギラリと鈍く光る牙が肌を突き破る。

 すると、ぷくりと膨れた赤色の玉が溢れると…弾けて雫となる。

 

 口内に広がる鉄の味。

 むわっと広がる血の匂い。

 これが余計に衝動を刺激して。


 私は更に牙を突き立てる。

 痛みに呻くユウの声が耳に届いた気がするけど、許可は貰ってるんだから弱めたらなんかしない。


 嗚呼、これが好きな人の味。

 好きな人の血!!

 

 私…今ユウを食べてる!!

 好きで虐めてたユウの血を全身で味わいながら吸う。


 ヂュゥ〜〜〜〜〜〜〜っと音が響き、私はひたすらに夢中で…それしか頭になくて。

 広がるユウの味をおっぱいを吸う赤ん坊みたいに熱心に吸う。


 それから、数分?もしかしたら数時間かもしれない…。

 億劫にも感じる時間が過ぎ去り、私の曖昧となった意識は突如としてクリアになった。


「…ぁっ」


 言葉にもならない小さな声が溢れる。

 あれだけ支配していた衝動も、渇きも今では何もない。

 まるで激しい航海を乗り切ったような、そんな達成感すら感じる中…私はハッと思い出してユウを見た。


「ユ、ユウ?」


 心配になって声を掛ける。

 けど、ユウはぐったりと顔を俯かせたまま何も返事は返ってこない。

 

 全身がぞわりと震えた。


「あ、そ、そんな…」


 私、バカだ。

 誘惑に負けて、ユウを殺してしまった。

 この牙で…ユウを、ユウを!!


「ご、ごめんなさっ…ごめん、ごめんなさ!!」

「…ん?チカ?ごめん疲れてて寝ちゃってたよ」


 え?


「あれ?なんで泣きそうなの?チカ」

「あっ!もしかして寝てたから死んだと思った?ごめんね?すっごい疲れてたから眠気には勝てなくて……」


 苦笑混じりに笑うユウ。

 そう言われると、確かに目の隈とか妙にぐったりしてるを見るに疲れてるのは見て取れる。


 けど、けどぉ!!!


「こ、殺したのかと思って心配したんだからぁ!!!」

「わ、わっ!チカ!?」


 涙を流して私はチカに抱きつく。

 よかった、生きててくれて…!良かった!!すごくっ……よかったぁ!!


「……ごめんね?心配掛けたね」

「めちゃくちゃ心配した…」

「すっごい疲れてたから……」

「私を襲った吸血鬼…倒してくれたんでしょ?」

「うん…」

「……ねぇユウ」

「なぁに?」


「ちょうすき…まじすき」

「私もチカのことちょーすき」

「ならこっちは血を吸いたいくらい好き」

「じゃあこっちはエッチしたいくらい好き」

「ふふっ…なにそれ」

「そっちこそ」


 変な背比べをしながら、私達は笑い合う。

 クスクスと微笑みが部屋に響くと、私達はふと窓を見た。


 二階から見る窓の景色は夜の闇を映し出す。

 黒の背景にキラキラと散りばめられた宝石、その中に一際輝く大きな月。

 仄かに明るい月の光は、窓に差し込み私達を照らす。


 そんな輝きに目を奪われて…。


「月が綺麗ですね」


 はっきりと、透き通るような声でユウは告げた。

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