【1月15日 夜の後】



 新年が明けると社会人たちは関係者たちに挨拶をする。最初の数日間をそのようにして、新しい年を日常へと戻していく。


 塚本からの連絡は年末年始は大きく減った。おそらく奥さんの実家にでも行っているのだろうと、苺依は思った。一人で迎えるであろう年末年始に耐えきれるとは思えなかったが、それでも自分には丁度いいと思って一人で東京にいることにした。


 新しい年が明けて、出社する前日にようやくLINEで「おめでとう」と一言入る。苺依は「待っていました」という一言を入れようか迷う。そんな意地悪な気持ちが出てきていることに気付いて、このままそれを入れてしまいたい気持ちを抑える。「おめでとうございます」と返して、続けて「いつ逢えますか?」と入れてみた。


「ごめんね。しばらく連絡できずに」


 新宿駅で待ち合わせして、呼び出した。バツが悪かったのか塚本らしくなく最初から謝ってきた。いつもなら空気の重さを変えようと一言二言、楽しい気分になることを言うような人が。苺依は何も返さずに、いつも行くラブホテルに向けて歌舞伎町を歩き出した。黄色や赤の原色がチカチカした看板が目に入る。街中には居酒屋の呼び込みと、大人のお店の呼び込みが立ち並んでいる。人工の光りのなか、寒い夜にも関わらず熱気ばんでいた。そのそばを二人で抜けていく。ゴジラの看板が出ている東宝の映画館の脇をぬけて、人気が減っていく場所にあるホテル街に入り込んでいく。


 ホテル街は表面だけ着飾っていることが多い。ふと見やると、隣のビルが取り壊されたせいで、接地していた面がむき出しになったホテルがあり、それには酷い興醒めを感じる事がある。長い間の煤と埃のせいで灰色の壁。エアコンの室外機がむりやり嵌められているのを見ていると、何か捕まっているロボットたちの顔に見えてくる。苺依は自分と塚本が幾度も身体を交わしたホテルもどうせ同じようにボロボロの裏面なのだと思った。私たちらしいのかもしれない、とさえ思う。


「苺依。久しぶりだ。ああ、懐かしい」


 どうしたのだろう、いつも以上に甘えている気がする。ちょっと前まで、この甘さは間違いなく呪いであった。甘い香りが本当に香るように、それによって苺依は目の前がうすい桜色の靄にかかっているようにさえ思えたこともあった。ちゃんと私を見てくれている。ちゃんと私を欲している。それは全身に回る。苺依は思う。もう、止めてあげないといけない。


 塚本はそのまま苺依の服の上から強く抱きしめて、身体のいたるところに手を回す。唇を求めてくるが、苺依はそれを躱して上を向く。それでも気にしないように、耳、首、鎖骨と唇を滑らせる。いつもと同じ流れである。もう少しすると、左手か右手をおなかのところに入れてくるだろう。身体が誤って火照ることがあるかもしれない。苺依は天井を見ながら、塚本を切り落とす。


「塚本さん、さよならしよう」


 塚本はその声が聞こえないのか、手も唇も止めそうにない。


「塚本さん」


 苺依はもう一度名前を呼んだ。そういえば、いつまで立っても下の名前で呼ばせてくれなかったなと、ふと思う。塚本は苺依と目を合わさないまま、身体をまさぐるのを止めて、ただ抱きしめるだけに代えた。


「もう。だめなんだ?」


 語尾を上げて確認をする。


「そうだよ。もうダメなんだよ」


 苺依は自分のこころの引っ越しの準備ができたように、色んな思い出を段ボールにしまって蓋をして、ガムテープで囲っていく。多分、今感じているこの塚本のぬくもりも最後に開いているあの箱に入れる。


「分かった。ちゃんと逢って言ってくれてありがとう」


 苺依が事前に考えていた、塚本が言いそうだと思っていた、どれでもない言葉を苺依に投げかける。それから、ふわりと塚本の腕の力抜けるのを感じる。苺依は自分の身体なのに、何かを剝ぎ取られるように感じた。


「私を持っていかないで……」


 それを苺依はかろうじて言わなかったのか、言ってしまったのか、分からないでいたら、さっきまで後ろに居た塚本が前に周っていた。


 塚本らしくなく、下を向いているせいで前髪が目を隠してた。


 苺依は手を伸ばし、中指で前髪を分けて解いてあげる。それでようやく目を合わせた塚本の瞳には力が無い。灰色にみえる瞳に、苺依が映っていた。


「大丈夫。何もかも解いてあげる」


 苺依は思う。彼はこのままではいつまでも満たされないだろう。この先の自分にも、そして私にも、間違いなく嘘を重ねるだろう。彼が思っている、本当の自分なんてものには、きっとなれないだろう。本当の自分は私みたいな「透明な存在」の前で見せるものじゃない。きっと塚本が大切にしたいと思っている人たちの前でこそ脱ぐべき。


 僅かな勇気。それさえあれば。


「さようなら」


 塚本の前で止まっていた苺依の指がゆるやかに落ちていく。自分の存在が、透明以上に希釈されていくことになるのだろう。明日からはもう、そこかしこにある空気と同じぐらいに密度を失ってしまうのだろう。重さも何もない。


 その場で誰かの許しを請う塚本を置いていくことにした。


 もうこれ以上塚本の傍で、甘い香りを嗅いで理性を保てる自信が無かった。


 扉を開けて、閉まる間際に塚本がぼそりと何かを言った気がした。


 聞こえないふりをして、苺依は扉を閉じた。

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