【12月23日 やくそくのあと】



 今日の朝はいつも以上に明るくて綺麗な気がした。ベランダに出ると寒々しい風が吹いていて、冬も真っ只中なのに、ほんの少し暖かい光が差し込んでくるとさえ感じていた。苺依は昨日のうちに準備した宿泊バックを持って、家を出ていく。


 塚本は会社と奥さんに今日は出張ということにして、苺依は残っている有給の消化ということで休むことし、二人で計って横浜まで出かけることにした。平日の横浜であれば空いている。中華街や赤レンガの前を二人で歩けるのであれば気持ちも自然と上がるだろう。


 歩いて家の近くの駅前まで行き、塚本の迎えを待った。何度か乗ったことのある青いフォルクスワーゲンのゴルフが遠くの曲がり角を右折して苺依の場所へ向かって前進してくるのが見えた。


 国産車よりも分厚い外装のせいかドアが重く、閉まるときの音も一音低い重厚感がある。


 車の助手席に滑り込むと、ステアリングを掴んだ塚本が笑顔で「おはよ」と言った。車内で二人だけの空間になったおかげか、苺依は解放された気持ちになる。


「どうしようね!」


 今日一日が楽しくて仕方がない。


「なんか、ワクワクしちゃうよな。ホテルのチェックインまで時間があるから、横浜着いてからは車でいけるところに行こう」


 ゴルフのディーゼルエンジンが低い音を鳴らして震えた。そのまま二人を乗せた車は駅前を滑り出していった。首都高5号線に乗り、都心を回って羽田線を経由し、横羽線を南下しながら快調にスピードを出していく。途中で大黒線に乗り、わざわざ首都高湾岸線を経由した。


 大きな横浜ベイブリッジを渡るときに、苺依ははしゃいでいたが、それを咎めない塚本でもあった。苺依は流れる横浜の景色や、塚本との他愛ない会話で、自分の気持ちが重力から解放されていることに気付く。これほど軽くなれるのかと思うほどに。ラジオからFM yokohamaが朝に合うナンバーを流していた。耳に残る曲であったが、タイトルまでは思い出せないでいた。



 ■ ■ ■



 夜景が一望できるホテルで二人で贅沢な時間を過ごした。美味しい料理と美味しいお酒を二人で味わう。帰る時間を気にすることもなく、塚本と二人で夜を明かせることがこんなにも嬉しいと味わってしまった。そして、これほど欲していたのかと、苺依は自分の欲望の塊を感じずにはいられなかった。それは同時に、これ以上向こう側に行くことが怖いと感じている証でもあった。


「今日って、昔は天皇誕生日だったんだけどな」


 と何気なくベッドに入りながら塚本が言ったことが気になった。クリスマスとつなげて大旅行をしたことでもあったのだろうか。嫌な想像を自分がしてしまう。今、私がこんなにも欲していた時間を、奥さんは何の気なしにいつだって味わうことができる。そう思うと、悔しくて惨めな気持ちが溢れ出してきた。どろどろとしたものがお腹の底に溜まっていくことが分かり、怖くなってきた。そんな苺依の感情に関係なく塚本はリラックスした状態で笑顔を満たしていく。そんな笑顔はここ最近見ていなかったなと、ふっと思い、彼は彼なりに何かの鎧を脱いでいる状態なのかもしれない。


 二人で何度も絡み合って綺麗なシーツをぐしゃぐしゃにした。枕も掛け布団も床に落ちていて、二人の上には薄いシーツが一枚あるだけだった。塚本は裸の苺依に、まるで小さな男の子のように身体を縮めてうずくまっていた。苺依はぼんやりとカタツムリみたいだと思う。渦を巻いていて、少しのこったシーツがふたりの裸体をわずかに隠していた


 塚本が苺依の胸元に顔を預けて目をつむる。苺依は塚本の肩を手で引き寄せて、自分の体温を伝えてあげた。肩を叩きながら、塚本の呼吸をする体の上下運動を感じた。


 寝息が聞こえてきて、彼が眠りの中に入ったと思った。ベットサイトのライトを消した瞬間、苺依は今日見ていた景色の全てが天地反転してプレイバックされていった。真逆になった世界で、私が一人だけ立っていた。もう、この世界には居てはならないと警告されたように。本当はもう私はこの世界から追い出されているのではないかと。寂しい気持ちの中、布団に戻って塚本のぬくもりのを感じた。


 深夜、苺依は寝たり起きたりを繰り返していた。薄いカーテンで閉まった、広くて大きな窓には横浜の夜景がぼやけて広がっていた。


 うーんと言いながら、隣の塚本が布団をはいで足を放り出してしまった。全く子供みたいだなと思って布団をかけようとしたら、


「苺依……ありがと…」


 呟く。


 布団を掛けようとした苺依の手が震えて止まる。あまりに健やかで何も疑わない塚本の顔を見つめる。どうしようもなくこれが欲しい。この時間が欲しい。


 全部欲しい。


 全部欲しいの。


 何もかも、全て、私に返して欲しい。


 苺依は大声で叫びたかった。どうしようもなく、どうしようもなく。


 胸がくしゃりと潰れた。小さな乳房が血で溢れたように。


 声を立てないようシーツを噛みながら泣いた。


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