【10月10日 お月見のあと】



 10月の祝日であるスポーツの日は第2週の月曜日である。東京オリンピック以降は体育の日をそのように呼ぶようになった。祝日にカタカナ語が入るのはここだけなので違和感があった。部屋の外は秋がたち、朝の空は夏よりも澄んで高くなっていた。


 休日の朝は何も起こらないことが分かってきて、苺依は憂鬱になる。こんな連休の中日に、一人で都会の真ん中に居ることがやるせない気持ちにさせる。苺依はベランダに出て、休日の空気の中に入った。羊雲が上空の高いところあり、どうせなら雨でも降ればいいのにと願って見る。すこし萎れてしまっているストレリチアに気付き、慌ててキッチンに戻って水を持ってあげることにした。そのあと、霧吹きで葉っぱに水を与えてやる。


「ごめんね。なんか見てあげてなかったね」


 ブルルとLINEが鳴る。休日の昼間にあまり来ないはずなのに、なんだろうと見てみたら、塚本ではなく同僚の子からのLINEだった。


「山本さん辞めるらしいよ」


 あの山本さんが?


 と苺依は不思議に思った。仕事熱心な人だった。苺依は苦手であったが、この仕事をすごく頑張る人だったのに。


「知らなかったの? 二週間ぐらい会社に来てなかったんだよ」


 そうなんだ、と苺依は気づいていなかったことを少し恥ずかしく思った。


「まぁ、でも正直うちらワカモノにとっては助かるよね。あんな厳しい物言い、昭和かよって思うよね。今は令和なんだから」


 同調したくなる。確かに山本との仕事は辛いものがあった。それでも、辞める人に対して不謹慎かと思った。


「あんまりそういうのは……」


 と返すと、


「でも、そんな事言いながらでしょ?」


 と、ぐうの音も出ないことを言われた。不謹慎そのものは私たちの方かと思い直す。


 特に送別会のようなものは開く予定が無いらしく、その話が終わったら適当な会話にすぐにすり替わってしまった。



 ■ ■ ■



 陽が落ちそうな夕方に外に散歩に出かける事にした。すぐに近くにある公園から金木犀の甘い香りが鼻の奥を刺激した。そういえば塚本はこの香りが分からないと言っていた。こんなに強い香りが分からないなんて「鼻がおかしいんじゃないですか?」と言ったら、少し拗ねていて可愛かった。公園まで足を運んで、金木犀が咲いているのを見つけて、写真に収めた。オレンジに色づいた花弁からは、やっぱり強い香りが漂っている。苺依はこの写真を塚本に送ってみた。「外にでれば、金木犀の香りがしますよ」とからかい半分でメッセージを添えて。


 帰宅するのに遠回りしていたら、苺依の前を小学生ぐらいの兄弟が歩いていた。二人も帰宅する最中だったのかもしれない。西日を前に手を繋いで帰っており、微笑ましい風景に思えた。二人の長く伸びた影が苺依の足元まで来ていた。夕日がさらに沈んで丁度道の延長上に落ちそうになった。


 赤い夕陽を背にしたせいで、苺依から見ると二人が影絵になった。


 強く、握り合った手。


 夕日の赤色。


 黒い二人の絆。


 突然、心を揺さぶられる。


 奇跡的な瞬間が苺依の目を焼き尽くした。


 強烈なまでの形式美が、目の前にある。


 苺依は、この美しい絆の在り様に涙をした。


 そうして、目を向けることもできずに下を向く。


 苺依の涙が地面に落ちた。


 その雫分だけが黒くなっていく。


 その黒い斑点は見る間に増えていく。


 アスファルトのいたるところに。


 ザーッと音が鳴るほどの夕立が来た。苺依は慌てて近場の軒の下に入る。下着まで濡れてしまうほどの雨であった。前髪がべったりとおでことほっぺに張り付いていた。手に持っていたハンドタオルをだして、雫を落とした。アスファルトが匂い立って、子供のころに嗅いだ夕立のにおいがしてきて、懐かしくなる。はやく通り過ぎないかなと上を見ていたら、塚本から着信があった。


「もしもし? どうしたの?」


 何かあったのかと思って、電話に出る。


「いや、ちょっと散歩してて。金木犀? 全然わかんないんだよな」


 苺依はそれを聞いて吹き出した。


「雨が降ってるからじゃない?」


 そんなことの為に電話をしてきたのかと思って安心した。


「雨? 降ってないよ」


 と言われ、血の気が引いた。迂闊だった。こんな大型連休だ。出かけているに違いない。おそらく東京ではないところに居るのだろう。私はこんな格好で外を歩いているのにと思ってしまった。


「苺依、山本が辞めるらしいよ」


 話を変えるためだろうと思ってしまう。山本さんのことなど今まで聞いたことが無いのに。ただ、続きを聞くと山本さんに強めのプレッシャーをかけてしまったのが自分だから、最後の一押しをしてしまったかもしれないと落ち込んでいた。


 苺依はうんうんと合図値をうつだけにして、上の空になっていた。


 足元の雨脚が弱まったことに気付き、空を見あげた。


 すっかり暗くなり、街灯が上空を灰色にしていた。


「そっちって、月でも見えますか?」


 おそらく、話を遮って話してしまったのだろう。塚本の声が急に無くなったと思った。


「月? ああ、綺麗だよ」


 空は暗い色のままで、月は見えなかった。


「いいですね」


 何かを察したか、塚本が息を吸う音が聞こえた。


「苺依、好きだよ。いまも逢いたいから電話をしてるんだよ」


 音だけが耳に届いた。


 暗い街の上空に蝙蝠が数羽飛び交っていた。凄い速さで飛んでいるが、見えない木々や街灯を器用に躱して当たらない。狭い場所行ったり来たりしながら、昆虫を採取しているのだろう。暗闇をただ食べたいだけの為に飛んでいた。その姿を見て、「あなたの口癖みたいな「好きだ」と同じ」と苺依は思っていた。


「おやすみ」


 電話の切り際、塚本がそう言った。


 それも同じだ。

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