廃墟と少女

 転がっていた桶を拾い上げたアリィは、それを古ぼけた井戸の中に放り込んだ。耳を澄ませてしばらく。何か柔らかいものに着地した小さな音が聴こえる。

 律儀に釣瓶を引っ張り上げてみると、中に少しだけ砂が入っていた。井戸の底は砂にまみれているのだと推測できる。

 はあ、と息を吐いて、アリィはその釣瓶を地面に放り投げた。唇はへの字に引き結ばれ、赤い瞳には諦念の色が浮かんでいる。


「いい加減、そのしみったれた顔をやめろ」


 一連の動作を腕を組んで見守っていたエカは、苦言を呈した。アリィは少しだけばつが悪そうな顔をしながらも、拗ねたように口を尖らせる。


「だって、やっぱり何もない」

「あったじゃないか。街が」


 組んだ腕を解き、アリィの頭の向こうを指し示す。

 そこには、砂に埋もれかけた石造りの街があった。日の光で白く染まった街は、当然のことながら廃墟で、周囲の状況を鑑みても人が住んでいないことは明白だ。

 そうじゃなくて、と言い募ろうとした言葉をアリィは飲み込んだ。自分が未練がましく愚痴を言う未来が見えたからだった。

 もう一週間近く、こんな風にくさくさした気分が続いている。それが良くないことであるのは、アリィ自身も解っていた。雰囲気を自分が悪くしていることも。

 だが、このもやついた気持ちに、どうしても自分で始末をつけられずにいる。別のことに意識を向けてみようと努力もしてみた。だが、荒涼とした大地と早々に暮れてしまう日の短さが、アリィからことごとくその選択肢を奪う。


 溜め息を溢す。口内がざらついたような気がするのは、辺りが砂にまみれている所為だろうか。


 アリィは街の方へと数歩寄った。霞がかった視界の中、砂塵に削られた建物を見つめる。かつてはここにも人間が住んでいた。どんな生活をしていたのだろう。疑問が頭をかすめる。こんな荒涼とした場所では、食べ物も水も容易には手に入るまい――いや、水は手に入ったのか。井戸がそこにあったのだから。

 アリィはまた、吸い寄せられるように、街へと歩を進めた。


「……アリィ?」


 兄の訝しむ声に、立ち止まって少しだけ振り返る。


「あー……」


 しばし視線を彷徨わせた後、何かを誤魔化すような笑みを意味もなく浮かべて、


「ちょっと、歩いてくる」


 そう言い残して、ふらふらと街の中へと向かった。


 辿り着いたそこは、見通しのいい通りだった。両側に建物が建っているが、車がすれ違えるだけの広さがあり、開放的な場所。転じて、現在は寂しさの目立つ場所になっている。

 昔はこの場所を埋め尽くすほどの人が居たのだろうか、と想像してみる。だが、具体的なイメージは下りてこない。アリィはかつての人間の文明的な生活を知らない。自分たちの送っていた自給自足の生活は、どちらかというと原始的なものに近いらしいのだが。


「……真っ白な紙みたい」


 目の前の景色をそう形容する。人々の生活を思い描けないという点で、絵を描く前の紙を前にしているような気分だった。

 通りの真ん中を歩く。左右の建物に目を走らせてみると、かつてガラスが嵌っていただろう窓が何処も共通して大きいことに気がついた。明かりを取るにしても、果たして背丈ほどの大きさが必要だろうか。その意味を見出だせなくて、またもどかしさがアリィを襲った。

 過去の世界の知識なら、それなりに仕入れているはずだった。しかしそれでも、かつての人間の生活というものが分からない。


「それは、人間と呼べるのかな……」


 自分が過去の人間たちとあまりにも乖離していることを思い知らされた。それがまたアリィのもとに不安を招く。

 ――怖い。

 ここまでの道中で吐き出せなかった本音。自分が何者か知るのが怖い。知らないのも怖い。

 天秤が右に左にと絶えず揺れている状態に参っていた。だから早く落ち着きたかった。どちらにでもいい、天秤を一方に傾けた状態のままにしたい。

 しかし、期待に反してこの旅路はとても長い。食糧の心配もしなければいけないほどに。今もこうして無為に時間ばかりが流れていく。

 真実がアリィから遠ざかる。

 焦りは苛立ちに、それから失望に変わっていった。そして今のこの不貞腐れた状態がある。


「なんか、馬鹿馬鹿しいかも」


 冷静に振り返ってみると、一人で勝手に感情に振り回されている様が滑稽に思えた。

 付き合わされた兄たちも大変だったことだろう。

 それでもって、今勝手にこうして飛び出して――


「……帰ろ」


 幼稚な自分が恥ずかしくなって、アリィは踵を返す。先を急いでいたくせに、こんなところで時間を潰すだなんて。この行為の無意味さを自覚してしまった。

 早足でバスへと戻る。いつもきれいなピスタチオグリーンのボディが砂にまみれているのが見えて、悲しくなった。早くここから離れたい。身勝手にそう思う。

 けれど、またしても、日はもう暮れかかっていて。

 宵闇が迫りくるのも、時間の問題となっていた。


「あーあ、馬鹿だ私」


 そうぼやきながら、バスのドアに手を掛ける。


「――おまたせ」


 果たして、リオとエカはバスの後部座席で待っていた。二人ともきょとんとした様子で、戻ってきたアリィを見ている。


「……終わったの?」


 何気なく尋ねてくる兄に、アリィは密かに参ってしまう。またしてもお見通しというわけだ。気遣ってもらったりともう色々頭が上がらない。

 そんな内心を表に出すのも恥ずかしくて、アリィは苦々しくも笑ってみせた。


「うん。始末、付けてきた」

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