Boundary

旅人と滅びた都市

 嗅ぎ慣れない生臭い匂いがリオたちのもとに吹き寄せる。バスを降り丘の上に立つリオたちは、目の前の光景に立ち尽くしていた。

 丘の下に広がるのは、広く青い水辺だ。これが海だと、傍らのペンギンが教えてくれた。湖とは異なる広大さは圧巻だ。海が視界に入ったばかりの頃は、アリィがはしゃいでいたものである。

 だが、その妹は今、運転席から降りた位置で静まり返っている。ピスタチオグリーンのドアに左手を添え、小さく口を開けて立っている。リオもエカも、似たようなものだ。なにせ、その海岸線は滅びた都市の建物で埋め尽くされていたのだから。

 建物は皆、朽ちていた。まるで空に白い手を伸ばし、そのまま息絶えたかのようだった。その頭上で黒い鴉が鳴きながら弧を描いて飛んでいる。


「……なんか、こうして改めて見ると、ショックだね」


 埃の混じった潮風に、アリィの声が流れていく。

 終末を迎えて時を止めたような光景に、リオたちは衝撃を受けていた。本当に世界は滅んだのだと、見せつけられているようだった。人間が存命している可能性など一欠片もないような、圧倒的な滅びの光景。


「見慣れていると、思っていたけれどな……」


 かつてリオとアリィが暮らした家からも、自然に呑まれた都市の跡地が見えていた。毎日のように見ていたはずだ。それなのに、何故こうも衝撃を受けるのか。――それは、ここが地の果てに他ならない。マイクロバスでは、海を越えられない。リオたちはこのまま滅びた都市の縁を走り続ける他なく――


「……あ」


 リオは左手の奥側に目をやった。景色が霞むほどの遠くに、橋が見える。海上に差し掛かり、白い柱からワイヤーで吊り下げられた大きな橋。リオたちからはよく見えない対岸に向けて延びている。

 それを知ったとき、リオの口から安堵の息が漏れた。まだ結論を出すには早いと感じた。

 リオはアリィの傍に行き、橋を指差す。

 行き先が決まった。


 マイクロバスは、丘を下り、ゆるゆると白く石化した街を走った。アスファルトはひび割れ、石の欠片でがたがたとしている。建物が倒れていたり、自動車が乗り捨てられていたりと、障害物も多い。加えてビル群は橋の姿隠してしまう。橋に辿り着くには時間が掛かりそうだった。

 リオもアリィもエカも一言も喋らない。アリィはステアリングに齧りつくようにしがみつき、助手席のリオと後部座席のエカは外を眺めやるだけだ。

 ただ時折、建物の窓にゆらぎが見えると、窓に貼りつくことがあった。人の姿を見たような気がしたが、実際はなんてことのない、建材がぶら下がったり、カーテンが揺れていたり、とそんなことばかりだ。

 ――過敏になり過ぎている。

 リオは自身の気持ちがささくれ立っていることに気がついた。ため息を溢し、座席にもたれ、気を宥めようとする。だが、傍らを通り抜ける自動車の中が気になって仕方がない。埃を被って白くなった車体の中を覗き込み、何もないことを確認し、安堵する。

 リオは、生き残っている人よりも、人の死の痕跡を探していた。そして、見当たらないことに安堵しているのだ。


「意気地なし……」


 思わずぼそりと呟く。アリィが一瞬視線を寄越したが、何の言っては来なかった。

 カァ、カァ、と数羽の鴉が騒ぎながら、頭上を旋回している。この車が光り物にでも見えたのだろうか。埃を被った他の車と違い、白い屋根は太陽光を弾いていることだろうから。


 ビルの谷間が広がり、大きな橋の太い柱が目に入る。


「あの橋の向こう、何があると思う?」


 行き先を確かめたアリィが、ステアリングをさばきながら隣のリオに話しかける。


「さあ。……もしかしたら、人間が生き残っているかも」


 応えて、なんとも白々しく聴こえて自嘲する。リオたちの居た大陸だけが滅びに直面し、海の向こうはまだ――などと想像してみたものの、心の底から信じる気にはなれなかった。リオにとって、世界が滅びている状態こそが当然の状態なのだ。今更その認識は変えられない。

 リオは虚空を睨み、唇を引き結んだ。すさんだものの考え方をしている、そんな自分に呆れた。新天地を探す父の旅路に縋って、ここまで来たくせに――。


「いや、だからこそ……か」


 父の手紙と母の日記を思い返す。彼らが人類は滅亡したと認識していたからこそ、リオも同じように世界を見ているのだ。


「おにぃ、相当参ってるね」


 遠慮がちに話し掛ける妹に、うん、とだけ返事をする。


「もう少し飛ばす?」

「……いや」


 バスの速度が遅いのは、アリィが安全に気を遣っているからだと知っていた。その想いを否定する気はリオにはない。


「……ごめん。どうしても悪いことばかり考えてしまうんだ」

「解るよ」


 バスがビルの角を曲がる。ようやく橋へと辿り着いた。真っ直ぐに海に張り出した道路。その左右を支えるワイヤー。どれだけの時間放っておかれたのかはしれないが、よくぞ保っていたものである。

 橋の手前で、アリィは車の速度を緩めた。


「行くよ」


 硬い声。どうやら緊張しているらしい。この先に何があるのか、と期待と不安が二つとも膨らんでいる。もともと静かなエカも、息を詰めているようだった。

 そろりそろり、とバスは橋に差し掛かる。


「……待て!」


 後部座席から声が上がる。アリィはブレーキを踏んだ。大きな反動をもって、バスが止まる。

 兄妹は勢いよく振り返るが、エカはじっと窓の外を見つめていた。


「……人だ」


 え、と小さく声をあげて、二人はエカの視線を追った。窓の外。三つの箱を積み重ねたような形の白い建物の入口。そこで白い布が棚引いていた。海風に煽られたその布は、何かに巻き付けられている。

 人だった。エカの言う通り、陰の下に人が居た。

 こちらをまっすぐ射抜く瞳は、まるで出たばかりの太陽のように眩しく、鋭く、こちらを見つめていた。

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