1-2
*****
ジェラルドと出会ったのは六年前。
ルルが通っていたのは中流階級層が通う私立校だった。
この学校にいるのは、実業家や医者、大学教授など、
上流階級に
ばかりだと聞いていた。……のだが。
ルルが入学してすぐに
「おい、ふざけるなよ! こんな目にあわせやがって」
男子生徒二人が
どうやら銀髪の生徒が二人組を噴水に
「良かったじゃないか。
「だ、誰のせいで汚れたと思ってるんだ! お前が僕に足を引っかけたりしたから――っ、こんなこと、僕の父さんが知ったら
「はっ。いい年して父親に助けを求めるなんて
「な……なんだとっ……この
銀髪は鼻で笑い、濡れた生徒は真っ赤になって
(う、うわ~~~っ! なんて
真冬ではないので
周囲の生徒たちは遠巻きに
「やめなさいよ! いじめなんて格好悪いわよ!」
突如しゃしゃり出てきた下級生女子に銀髪が怪訝な顔をした。
「…………なんだお前。関係ないだろ」
「な、ないけど、こういうのはよくないわ!」
青い瞳で睨まれて
負けるものかとルルが睨み返すと、お前なんかに付き合っていられないと言わんばかりに視線を外された。銀髪はぷいっと背を向けて去っていく。
(勝った!)
いじめっ子を
しかし、助けたつもりの男子生徒たちはさっさと退散していた。周囲の生徒たちも特にルルを
(あ、あれ……?)
「ルルちゃん、あの人に関わらない方がいいって!」
……上級生に
ジェラルド・フィリーという名のあの銀髪の生徒は、喧嘩ばかりしている問題児で、気に入らない相手はぼこぼこにする乱暴者なのだそうだ。目をつけられて嫌がらせでもされたらどうするのかと
「女子相手にも容赦がなくて、嫌なことを言って何人も泣かせているんですって」
「最低ね。
周りの女子たちも同調する。
「え……、じゃあ、わたしのところにも仕返しにきたりするのかしら」
「ルルちゃん、気をつけた方が良いわよ」
「それにフィリー家なんてお宅、聞いたことないもの。貧乏人だって言われてるし、あんな
「関わったって良いことなんてないわ。言いがかりをつけられないように、しばらくは顔を合わさないようにしておいたら?」
しかし、ルルの心配は
ることはなかった。
既に顔を忘れられたのか、すれ違っても気づかれない。
喧嘩騒ぎは相変わらず起こしているようだったが―― その場に居合わせてしまったり、後から人に話を聞くうちに、どうやら相手側から喧嘩をしかけられていることが多いようだと知った。先日の噴水の一件も、相手の方からジェラルドに
これまでに返り
いつ見ても
(もしそうだとしたら、初対面でいきなり『いじめなんてやめなさいよ』は失礼だったかもしれないわよね……)
彼からしたら降りかかる火の粉を払いのけているだけなのだ。まあ、売られた喧嘩を買っているだけにしては正当防衛の域を
喧嘩相手は逃げていって、周囲の生徒たちもいつものことだからと遠巻きにしていて。
殴られたジェラルドの頰を見ながら「保健室に行きましょう」と言った。
怪訝な顔をして振り払われたが、ルルは
養護教諭は席を外しているらしく、ルルは
丸
(思ったより大人しい……。やっぱり、噂されているほどひどい奴じゃないのかも)
遠巻きにジェラルドを見ていたルルは「単に人付き合いが苦手な
はないかと確信していた。
付き合いのある職人にも周囲から怖がられている
その人はぶっきらぼうな物言いしかできず、冷たい人だと誤解されやすいのだ。何度かやりとりを重ねていくと、ちゃんと
「おい。いきなりこんな真似をして、なんのつもりだ?」
怪訝そうに
「……わたし、あなたのことを誤解していたわ。ごめんなさい」
突然のルルの謝罪に、ジェラルドは
「はじめて会った時にあなたのことを何も知らずに、いきなりいじめっ子だって決めつけてしまっていたから、……あの時はちょっと失礼だったかなって。ずっと謝りたいと思っていたの」
「…………」
「よく知りもしない相手にいきなり悪者
切れてしまっている唇の
ジェラルドはルルの顔をじっと見た。
「……
「え? 痛っ」
急に腕を
ルルは
なぜかジェラルドは
「誰だったかと考えていたが、お前、前に中庭で俺に口答えした奴か。今さら謝ってくるとはどういう心境の変化だ?」
「え、それは、だから、あの時は何も知らなかったし……」
「誰から
「っ、ちょっと、痛いってば! なんの話!?」
凄まれたことに
金? 媚び? ジェラルドは何かを誤解している。
ルルはただ
「こんなことくらいで俺が
摑まれた腕は解けない。
変な言いがかりをつけられた挙句、
「ふっ……ざけんじゃないわよ! あんた、何様よ!?」
ガァン! と
痛っっった~~~~~!!
と自分でやっておいて悶絶したが、こちらが純粋な気持ちで謝罪し、案じていた気持ちを、「媚び」だとか「金目当て」だとか言われて腹が立ったのだ。
「『こんなことくらいで俺が絆されると思うなよ』なんて、なんでそんなエラソーな目線なのよ。『実は隠してたけど本当はいいところのお坊ちゃんでした~』とでも言いたいわけ? あんたが金持ちだろうが貧乏だろうがそんなのどうでもいいわよ!」
ジェラルドの方も額を押さえて声を荒らげる。
「だったら、
「なんでそんなにひねくれた考え方しかできないのよっ。周りが言うほどあんたは悪い奴には思えないし、
いつも一人でいるジェラルドには放っておけない
初対面で失礼なことを言ってしまったことが胸に引っかかっていたのも事実だが、周囲に
「友達なんか別に
「そんなことないわよ」
「実際そうだろう。一部じゃ、俺が貴族の隠し子なんじゃないかって馬鹿な噂が流れているようだが、そういう噂が流れた時だけ
ああ、だからさっき、媚びを売りにきたのかと言ったのか。
ジェラルドは噂を聞いたルルがごまを
「……あんたは自分に自信がないのね。そんな下心で近寄ってくる人間なんか
思うがままに自分の意見を述べたルルだが……。
我ながら今、ものすごく良い事を言った気がした。
さぞやこのひねくれ男も感じ入り、「へへっ、お前の言うとおりかもしれないな。俺が間違っていたよ」とか言うに違いない。
ぽかんとしていたジェラルドは表情を
雪解けのような表情。ルルも笑顔になる。
ジェラルドの笑いは、優しい
「立派な演説だな。鼻につくくらいのいい子ちゃんの回答だ」
「もう一回頭突きするわよ!?」
真面目な説教を馬鹿にされ、ルルの頰は紅潮した。
だが、ジェラルドは笑っている。
少しは仲良くなれたと思っていいのかしら……。立ち上がったジェラルドから手を差し出されたので、床に座り込んだままのルルは
ぐっと引っ張り上げられ、「ありがと」と礼を言って顔を上げると。
キスされた。
唇と唇が
え。今。何。
何が起こったのかわからずに、ただただ
ジェラルドは不敵な顔でにんまりと笑う。
「……気に入った。将来、お前を俺の
「は!?」
いきなり何を言い出すんだこいつは、とルルは開いた口が
「ここまで俺を心配してくれた人間ははじめてだ。俺は感激した。お前が言うところの『魅力的な人』になった俺を一番近くで見る権利をやるよ」
「まっったく感激してなさそうな態度で何言ってるのよ。絶対お断りよ!」
「ところでお前、名前は?」
「ルル・エインワーズよ!」
名前も知らなかったんかい! と反射で怒鳴り返す。
いや、それよりも。それよりも……っ。
「信じられない! わたしのファーストキス~~~~~!!」
なんでこんな奴とキスしなくちゃならないんだ!
しかもこいつ、ついさっきまでわたしの名前さえ知らなかったのよね!? そんな相手に軽々しくキスをするなんてどうかしている! なんてことをするんだ!
憤慨したルルはジェラルドを突き飛ばして逃げたのだが……。
*****
まさか、あの時の一方的なあれが『結婚の約束』のつもりだというのだろうか。
ルルは六年ぶりに会ったジェラルドをじろりと睨んだ。
だというのなら今さらすぎる。この男はキスした翌日からしれっと学校に来なくなり、連絡一つ寄こさなかったのだ。
数年
ああ、あいつ、本当にいいところのお坊ちゃんだったんだ。
……わたしは、からかわれたんだ。
ざっくり切られたような胸の痛みは、むかつく奴だけど友達になってもいいかな、なんて芽生えていた気持ちや、自分でも気づかないくらいの小さな小さな好意を消し去るにはじゅうぶんなものだった。
侯爵家の
あの時のキスは
「あんたとの結婚なんかお断りよ!」
思い出してむかむかと腹が立ってきたルルは力いっぱい
そんなルルの態度などどこ
「お前が
ろう。安心しろ。俺は
「偉そうに何言ってんの? どれだけ待たれたって、わたしは
ジェラルドの表情は
「は? ……嫌い、だと?」
「そうよ。無理矢理キスしてきたような相手をわたしが好きになるとでも思っていたの? あんたなんか大っ嫌いに決まってるでしょ!」
きつい口調で言い切ると、ジェラルドの目は軽く見開かれる。
おそらく、ルル
(あー……、で、でも、今助けてもらったわけだし……。お金を出してくれた相手に、こんな恩知らずな言い方はよくないわよね)
感情のままに言い返してしまったが、一応は取り
「え、ええと、とにかく、助けてくれてありがとう。お金のことは本当に感謝してるし、さっきも言ったとおりちゃんと返すから。父様が王都に戻ってきた時に、また改めて……」
「――今すぐ返せ」
「え?」
ジェラルドは微笑んだ。
「返せ。今すぐ。この俺の
だの他人だ。金なんか出してやらん」
「いっ、今すぐなんて返せるわけないでしょ!」
突然の手のひら返しにルルは叫んだ。
(ああ、わたしったら後先考えずに言い返してしまって本当に馬鹿! でも、いくら借金のカタだとしてもこんな奴と結婚するなんて絶対嫌だもの)
赤の他人がこの話を聞いたら、変態ジジイに嫁がされるならともかく、顔見知りでもある侯爵の手を取らないなんてどうかしているというだろう。
だけど、この男に一生言いなりにされるなんて嫌だし、第一、身分が違うのだ。中流階級出の娘が分不相応なと悪口を叩かれるのも、愛人扱いされるのも真っ平ごめんである。
「商会の建物を売ればまとまったお金が手に入る予定なのよ。残りは働いてなんとかするし、だからその」
「働く? 王都でお前を雇ってくれる場所なんかあるのか」
「あ、あるわよ、きっと。今は借金取りたちのせいで雇ってくれないけど、ほとぼりが冷めれば、どこかが……」
「そんなことを言って、逃げるつもりだろ」
「逃げないわよ! ちゃんと働いて返しますっ」
「――だったら俺の元で働け」
なんでよ。嫌よ。とルルが口を開く前に、ジェラルドは指を三本立てた。
「一日三万ガロンで俺がお前を雇ってやる。仕事内容は俺の身の回りの簡単な世話――まあ、さしずめ
三万!?
ぶっ飛んだ金額すぎる。真っ当な仕事なら一日丸々働いたところで一万ガロンに届くか届かないかだ。
「そ、そんなんで三万とか……。いかがわしいことでもしようとか考えてるんでしょ!」
「そのとおりだ。俺の要求に応えたら臨時ボーナスをやってもいい。そうだな……。キス一つにつき一万ガロンとかでどうだ?」
堂々と言い切ったジェラルドに、ルルは「ふざけないでよ!」と
「お金の力で人を言いなりにしようとするなんて最低」
「なんとでも言え。四六時中俺の側にいたら、絆されて俺のことを好きになるだろう」
「なるわけないでしょ。どこから来るのよ、その自信は」
「じゃあ、
「思わない」
きっぱりと宣言したルルをジェラルドは鼻で笑い飛ばした。
「だったら俺の元で働いても別になんの問題もないだろう。俺の気が変わる前にお前の方から『やっぱりわたしが間違ってました。ジェラルド様と結婚したいです』と言ってきたら借金はチャラにしてやってもいい。……ああ、迫ると言ったが、あくまで普通にメイドとしての業務をこなしてもらった上で、お前が臨時ボーナスを受けるかどうか選べばいい。
何言ってんのこいつ。
初夜とか言って馬鹿じゃないのと思ったし、言いくるめられている気がしないでもなかったが――
「絶対お断りと言いたいところだけど……。働くだけで本当に日給三万もくれるの?」
どんないかがわしい要求をしてくるつもりなのかは知らないが――できそうな
ジェラルドもここが落としどころだと思ったらしい。真面目な、心優しい雇い主のような顔をして
「もちろんだ。
ない。結婚はしたくないがさっさと金を返したいルルにはぴったりの仕事だった。
(日給三万。頑張れば月給七十万くらい? 一年とちょっとくらいで返せる上に、わたしが働いている間に商会を立て直せる
札束で人の顔を叩くような人間に成長してしまった男を睨みつける。
スッと息を吸ったルルは、そこでようやく貴族に接するように恭しく頭を下げた。
「わかりました。わたしを雇ってください」
「契約成立とみなしていいのか?」
「ええ。メイドとして働いて、きっちり一千万ガロンお返しします!」
結婚を
「良い返事だ。じゃあまず手始めに百ルピオンで『精一杯務めますにゃんにゃん』とでも
言ってもらおうか」
「…………」
「どうした? これっぽっちのこともできないのか?」
こちらを馬鹿にしたような命令にルルは怒りで震える。
「……この××××侯爵……っ」
「減給にするぞ」
こうしてルルはジェラルドに雇われることになった。
借金の残額は九百九十九万ガロン、……飛んで、九百ルピオン。
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