第5話 清蒼の空
第5章 清蒼の空
夜の闇の中、時刻はすでに夜1時を過ぎている。
パァァァー
自動車のクラクションの鳴り響く音と、ヘッドライトの輝きに包まれ、詩織はゆっくり、俯き加減に歩道橋を歩いていた。
今日はもう帰らないだろう。
さっき、リカの手首を捻った感触が、今もこの手に残っている。
悪魔精霊に切り裂かれたまるでリストカットのような裂傷と、生暖かい鮮血。
自分はあの深い傷口に、塩を塗るように爪を食い込ませてしまったのだ。
リカでなくても、相当痛いだろう。
でも、胸に突き刺さるのは、リカのあの怯えた表情。
どうしてこんな事をしてしまったのだろうか。
自分は彼女のことが好きなのに。
リカのことを想うだけで、息が出来ないほど切ない。
時を同じくして、冬河リカも、夜の大都会の街並みに埋もれていた。
詩織に掴まれた左手首の感覚と、傷口を抉るように突き刺さった爪跡。
泉に浮かぶ木の葉のように、本来は静かで優しく温和な彼女。
その彼女の心の奥底で燃え盛る激情の灼熱が、自分の魂を焼き尽くそうと流れ込んで来るようだった。
自分を睨みつける彼女の純潔の瞳が、心を捉えて離さない。
自分は彼女を翻弄し、利用しようとしてるだけなのだ。
自分にとってはチェスの手駒にしか過ぎない。
自分にそう言い聞かせる。
また少し、胸にチクリと針で刺されたような痛みが走る。
「少し、嫌われちゃったかな-」
昨日は、一睡も出来なかった。
結局、マンションの部屋に帰宅したのが、午前5時すぎの明朝、
リカが自宅に帰って来ている痕跡もなかった。
澄み切った蒼い空を、白い雲がながれていた。放課後の屋上で、詩織は一人、冷たい柵にもたれかかって、フェンス越しに見える街の風景を眺めていた。
吹き抜ける風が気まぐれに通り過ぎていく。
ターミナルビル近辺には、デパートやアミューズメントパークなどの商業施設やビルが建設されていて、その周囲を取り囲むように、オフィス街やマンションなどの高層ビルが、白い積み木のように並んでいる。
自然との共生がテーマの発展都市であるこの街は、広い公園の敷地内はもちろん、歩道の並木通りやデパートの屋上やテラスなどにも、新緑の樹木が植えられている。
その向こう側には、湖のように静寂な海がキラキラと流れるように、太陽の輝きを水面に反射させながら広がっている。
そこを船舶がゆっくりと横断していく。
「そこにいたの?詩織、探したわよ。」
「リカ」
透き通るような声を聞いて、背後を振り返ると、苦悩の原因がそこに立っていた。
相変わらず、清楚で清純で美しく、泉のように透明な容姿をしている。
いつもは銀の髪飾りを付けているが、学校では、青いリボンをそこにまいている。
それが一層、清純さと可愛らしさ、か弱さや嗜虐心を際立たせたている。
重くもない通学カバンを両手で持っている。
繊細なガラス細工のように美しく、いっそこの手で壊してしまいたい。
2人はしばらく黙って見つめ合っていたが、すぐに詩織は瞳をそらす。
「うふふっ、何よ。まだ怒ってるの?」
冷笑するリカを睨みつけ、詩織は少し、怒気を込めて強い口調で言う。
「当たり前でしょう。自分だけ好き放題言って、私の持論も聞かず一人で帰っていったんだから。」
そう言うと、詩織は拗ねた顔を見せる。
「それは、悪かったわね。」
リカは苦笑いをすると、次に、詩織に問いかける。
「それで、あれから少しは考えた?
他人の生命と、自分の生命。
いったいどちらを、優先させるつもりなの?」
2人はしばらく、黙ったまま互いに見つめ合う。
詩織は、無言のまま沈黙することで、リカの問いかけに答えた。
「そう、そうなの。
結局何も変わっていないのね。
どうやら、あなたは私が考えている以上に、ずっと硬質な性格のようね。」
詩織は沈黙を続け、リカは溜息を漏らす。
そして今度は、詩織とともに、リカも押し黙って沈黙してしまった。
そうしてしばらく、無言の時間がながれる。
これは困ったわ。
この子娘は、私が思っていた以上に、清らかで、純粋で、それ故に手強い。
慈善心や献身は、確かに戦いの清涼剤にもなりえるし、能力(ちから)にもなりえる。
だが同時にそれは、自分自身を制限する足枷にもなり、先の戦いのように彼女の身を滅ぼしかねない時限爆弾を持ち歩いているようなものだ。
何も私は、この少女に、八方美人の慈愛の天使になって欲しいなどと要求してるわけではないのだ。
ただ私の事だけを見て、私の言葉だけを聞き、私の事を想い続けてくれるなら、ほかはどうだって構わないのだ。
極論を言うと、意のままに操れる機械にさえなってくれれば、慈愛や慈悲などといった感情は、どうだって構わないのだ。
私が彼女に求めている感情は、ただ一人、私個人に向けられた友愛。
ただそれだけ。
「リカ-」
静寂に流れる2人の時間に、鈴の音のような風が吹き抜けていく。
同時に、ようやく詩織が口を開いた。
「リカ、私も本気で、全ての人たちを救う事が出来るなどと、軽率に思ってはいないのよ。
多くの血を流して、結局誰も救えないかもしれない。
それでも、誰かの生命を救うという事は、清浄で尊いものだわ。」
誰も救えないかもしれない-
何を当たり前のことを言い出したかと思えば。
慈善心の押し売りか?
そう思いながらも、リカは顔色を変えず、口を挟まずに、詩織を見つめたまま、彼女の話を聞き続けた。
詩織もまた、リカとは違う意味で、賛同者を求めている。
自分自身の事を強く理解してくれる人間。
精神の支えとなってくれる人間を。
彼女もまた、共に戦う同士を求めている。
いや、彼女は、共に協力し合う戦友ですら、自分と同じく危険な目には合わせたくない。
戦友の身の安全を願っているだろう。
そういう少女なのだ。
気を赦すと、彼女を堕天させるつもりが、自分が彼女に引き込まれて、虜にされてしまう。
慈愛の天使に魅了されてしまう。
まさに、ミイラ取りがミイラになってしまう。
「けれども、私達が救おうとしている、名前も知らない大勢の人達にも、叶えたい願いや想い、彼らの愛する人たちがいるのよ。
私たちが誰かの生命を救うと言う事は、その人達と、その人達を大切に思っているすべての人達を含めた、一人一人の未来や希望、願いや想いを守ることなの。」
詩織は、自分自身の胸の内に宿る、持てる限りの慈愛や慈悲を尽くしてリカに語りかけてくる。
思いを尽くして、心を尽くして、リカに伝えようとする。
誠実に、切実に語りかけてくる。
情熱的に、真摯に、純粋に。慈愛を込めて。
それは天使の賛美歌のように美しく、そして、悲哀すら感じる程に痛々しい。
「だから私達は、戦わなければならない。
女性や子供たちなどの弱い人たち、善良な人々、そして、彼等を愛する
彼女の慈善心、献身は、嘘偽りではない、実際に形がある。
彼女の言葉の一つ一つは、彼女の真摯な願いや想いである。
彼女の願いや想いは、清蒼の空にも似た、透明な祈りである。
「そう、そうなの。でも私は、あなたのこと、助けたりしないわよ。」
リカの極限まで素っ気ない返答に、詩織はそっと微笑みを浮かべてる。
-しょうがないわね。
「ふうっ あなたは本当に、仕方のない娘ね。
想像していた以上に、偏屈な性格だわ」
リカが溜息をついて呟く。
誰にも理解されない-
それは自分たち魔女にとって、暗闇の中をただ一人で彷徨う様なもの。
それは孤独で、不安で、恐ろしい。
だから、彼女に、希望を与えてあげよう。
蜃気楼のような、希望と友愛の光を見せてあげよう。
どうせ彼女も、あと数年の生命なのだから。
そう思った刹那、リカは自然に言葉を紡いでいた。
ゆっくりと、静かに、まるで、自分に言い聞かせるように、詩織に話し始めた。
「人が人を憎悪し、妬み、殺し合う。
この絶望と悪意の連鎖に満ちた世界。
それでも私たちが戦うのは、人の心の中に、善意や慈愛、人を想うと言った純粋な気持ちがあるときっとどこかで信じているから。」
今、リカのその言葉で詩織の胸の中を清涼な風が吹き抜けていった。
-どうして私は、こんなことを話しているの?
彼女には、慈愛の天使になど、なってもらっては困るのに。
私が彼女の深い慈愛や慈悲に感化されてしまったの?
違うわ。私はただ-
「いいこと、詩織、これだけは覚えていてね。
あなたが誰かの生命を救いたいと願い、あなたが誰かの幸せを守りたいと想うことと同じように、あなたの幸せを願い、あなたのことを大切に想っている人たちもいる。
あなたのことを、敬愛している者たちもいる。
その人にとって、あなたの生命はかけがえのないもの。
その人自身の生命よりも尊く、何万人、何百万人もの人々の生命よりも遥かに貴重で、価値のあるもの。
詩織、あなたの生命は、この星にいるすべての人たちの生命よりも尊く、貴重で、価値のあるものなのよ。」
リカの言葉の一つ一つは、透明な泉のように溢れ出し、虹色に反射する水滴のように、宝石にも負けない輝きを放ち、詩織の心の中で弾け飛んでいく。
まるで、幻想の中に引き込まれるように、物語を紡ぐ絵本のように、心に安らぎを与え、色鮮やかに輝く。
「さあ、お喋りはこれくらいにして、私たちも、そろそろ街へお出掛けしましょう。」
詩織はそう切り出すと、両手で詩織の左手を握って、自身へ引き寄せる。
「えっ?」
リカの以外な行動に、詩織は戸惑う。
せっかくのたまの休日なのだから、私たちも、充分に楽しまなくちゃ。
どう、一緒についてきてくれる?
詩織はしばらくリカの顔を茫然と見つめると、そっけなく、返事をする。
「そ、そうね。わかったわよ。
そんなにリカがどうしても付いてきて欲しいって言うなら、友達の少ないリカの為に、仕方がないから付いてってあげるだけだからね。」
「うふふっ 詩織は素直じゃないな〜」
リカは笑顔を浮かべると、両腕で詩織の腕に絡みついて、恋人同士のように腕を組む。
「ちょっと そんなに引っ付いてこないでよ〜」
映画館では、恋人同士のキスシーンを観ているリカが、顔を微かに紅らめ、軽く丸めた左手の指を自分の唇にそっと添えて、恋する乙女の表情をしていた。
詩織はその健気で愛おしくすらある姿にひかれ、印象深く映った。
カラオケでは、清純派アイドルの新曲を振り付けまで真似て、純真無垢な天使の横顔を見せる。
詩織は軽く丸めた左手を口元に添えて、リカに気づかれないようにクスリと笑った。
「少し、驚いたわ。あなたが、恋愛映画なんて、好きなんて。
それに、結構流行りの歌とかも知ってるし、以外に可愛いとこもあるのね。」
蛍のように流れるヘッドライトの河のほとりで、詩織が今日一日の冬河リカの感想と祝辞を述べた。
以外に、の一言で、それが少し酷評に聞こえた。
「意外にって、バカにしてるの?
それに、恋愛映画が好きって、この前言ったわよ」
「そうだったかしら?」
詩織が口元に手を添えて、微笑みを浮かべる。
「うふふっ」
「今日は、楽しかったわ」
ネオンライトの光に包まれ、リカが呟いた。
そう言って貰えることが嬉しい。
リカが私を必要としている。
私もリカを-
「そうね、私も-」
楽しかったわ-
思わず本音を言いそうになった時、慌てて詩織は言葉を飲み込んだ。
「いいえ、まだ許した訳じゃないわよ。全然、楽しくなんかなかったわ。」
「うふふっ 素直じゃないわね〜
このあまのじゃくさん。」リカが微笑む。
詩織は、瞳を背けて、そっぽを向く。
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