第2話 雷雨の庭

 ちょうど、春から夏にかけて天候が不安定になる時期でもあり、その日も昼過ぎから曇り始めた空は、いまや断続的な遠雷を響かせていた。


「お前! また一拍遅れた! 見習いになって一か月になるのに、拝跪はいき一つまともに出来ねえのか!」


 養徳殿ようとくでん殿庭でんてい怒声どせいが響き渡ったかと思うと、秋烟しゅうえんれんが敷きの地面に転がされた。

 彼は右の袖口から血を流し、這いつくばったまま、怯える目で自分を突き飛ばした年かさの宦官を見上げている。周りには、見習い宦官たちや年上の教導役の宦官たちが輪になって囲んでいた。

 運悪く、この日の秋烟は朝から体調がすぐれなかった。皆で一斉に拝跪して立ち上がるとき、つい出遅れてしまったのである。


「おい何だ、その目は! やけに反抗的じゃねえか。この……」

 強面をした教導役の張内官は、足を上げて何度も見習い宦官を蹴りつけた。少年は悲鳴を上げながら頭を抱えて転げ回り、やがて動かなくなる。


「おい、くたばったわけじゃねえだろうな?」

 張宦官が左右の宦官たちに顎をしゃくって見せると、宦官たちは秋烟を引き起こした。


「何だ、気を失っただけか」

 桶の水を頭から浴びせられて、秋烟は目をつぶったまま、苦悶の表情を見せた。

「ふん。こんなとろくさい奴は死んでくれてもいいんだがな。顔だけは綺麗だが、とんだ役立たずだ……」


 年上の宦官たちからどっと哄笑こうしょうが起こるいっぽう、見習いの宦官たちはみな唇をかみしめ、蒼白な表情で突っ立っている。気まぐれで陰険な先輩宦官たちによって、どんなとばっちりを食らうか、分かったものではないからである。


 そこへ。

「お待ちください!」

 殿門の方から鋭い声が上がったと思うと、一人の見習い宦官が馳せてきて、宦官たちの輪の中に割り込んだ。彼は少年の憐れな姿を見て顔色を変えると、今度は張宦官の前に足を踏ん張って立ちはだかった。


「秋烟……いえ、湯内官とうないかんへの仕打ち、いくら『躾』と称しているとはいえ、度が過ぎていると思います! もしこれ以上彼を罰するのであれば、いっそ俺を罰してください!」


 秋烟をかばうように両手を広げ、浅黒い顔を怒りで紅潮させて抗議する見習い宦官に、張宦官は目を細めた。


「お前……謝朗朗しゃろうろうと言ったな? いい度胸だ。尊卑長幼そんぴちょうようの秩序を乱して、平然としているとはな。こいつの服を剥ぎ取れ、痛い目に遭わせてやる!」


 何とかうっすら目を開けた秋烟は「朗朗……駄目だよ……」と首を弱々しく振ったが、朗朗は動じず、自分を取り押さえようとした宦官たちに「自分で脱げます!」と毅然きぜんと言い放ち、制服を脱いで上半身裸となった。

 そして、塼の上にきちんと正座して、仕置きを受ける姿勢となった。


 張宦官は脇の宦官から鞭を受け取って半笑いの表情になる。次の瞬間、ぴしりと空気を裂く音が、裁きの庭にこだまする。それが合図のように、大粒の雨が降り始めてきた――。


 土砂降りのなか、秋烟と朗朗は互いの身を支え合い、よろめきながら回廊の軒下にたどり着いた。


「朗朗、朗朗……馬鹿なことを。僕をかばう必要なんて、なかったじゃないか。こんな目に遭って」

 秋烟は涙をこらえながら、自分の袖で朗朗の血まみれの背中をぬぐおうとした。


「秋烟、いいんだよ。そのままにして。触られると辛い」

 切れ切れの言葉で朗朗は返すと、背が痛むのかしかめ顔になった。

「お前こそ、腕が……」

 秋烟がはっとして右腕に手をやると、赤くぬるりとしたものがまつわりついてきた。見れば、張内官に折檻せっかんされた時の傷が、ひじから手首近くに走っている。

「痛い……」

 今更ながら強い痛みが腕に走り、秋烟は顔をゆがめた。朗朗は苦しげではあったが、無理に笑顔を見せた。


「馬鹿だな、今頃気が付くなんて」

「馬鹿は朗朗だろ。関係なかったのに、わざわざ巻き込まれに来て……」

 

 秋烟はつんとそっぽを向いたが、長くは続かなかった。ぽろぽろと両の目から涙がこぼれ落ちて来る。やがてへたり込むと、両膝をかかえてしゃくりあげ始めた。

「おい、泣くなよ……」

 朗朗も傍らに腰を下ろし、秋烟の肩に手を伸ばしたが、その唇から嗚咽おえつが漏れた。

「秋烟……」

「朗朗……」


 とうとう二人はこらえ切れなくなり、互いにすがり付きながら大声を上げて泣き続けた。

 大雨が嘉靖宮の瑠璃瓦るりがわら海棠かいどうの花を叩き、雷霆らいていが彼らの嗚咽をかき消していく――。

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