花の色は移ろっても、なお花なり ~『王妃さまのご衣裳係』シリーズ外伝~
結城かおる
第1話 秋烟懐旧
その日、夜中から降り出した雨は、
「――ああ、嫌になっちゃうなあ」
宦官部屋の窓から外を見ていた
彼は色白の面差しに憂いを漂わせ、ため息をついて窓を閉めると、身にまとった制服の襟もとを整える。
扉の外では、自分と同輩かつ友人の
「秋烟、
その名が示す通り朗らかな口調で告げた友人は、秋烟を
「何だ、やけに不機嫌そうな顔をしているな。まあ大雨の日はいつもそうだけど、
「別に、いつもっていうことはないよ」
ぶっきら棒に答えた秋烟は、
「……今日は
「そりゃそうだな。後で小降りになったら『
朗朗はさばさばした口調でそう言うと、匙で干し海老入りの粥を
――本当は、仕事が遅れるせいじゃない、大雨が嫌なのは。あの日をどうしても思い出すからなんだよ。
秋烟は
*****
「それにしても、どうにも困っちまったものだねえ。あの子たち、もとから母親がいないっていうのに、今度は父親が出稼ぎに行ったきり、帰って来ないんだって?
「ああ、もう半年になるんですよ。生きてるのか死んでるのか、それすらも分からないと来ている。でも、うちにはもうこれ以上、この子たちに食べさせるものなんてなくて、ほとほと困っていて……」
薄暗い土間の片隅で、十歳ほどの線の細い、色白の少年はすすり泣く少女を胸に抱きながら、うずくまるようにして座っていた。
農夫の伯父とその妻は、中年の来客相手にぼそぼそ喋っている。客がこちらにつかつか歩み寄って兄妹を覗き込むようにすると、少年はびくりとして、少女に回した腕に力をこめた。その客は細い眼をさらに細め、薄い唇をふっとゆがめた。
「ふむ。二人とも痩せっぽちで汚れてはいるが、磨けばなかなか綺麗な顔立ちなのでは?」
「あの子たちの母親は、それなりの美人でしたよ。なのに悪い男に引っかかって、苦労のあげく早死にしちまったんでさあ」
「女の子――
「本当ですか? 旦那」
問い返す伯父の明るい声が、残酷な響きをもって秋烟の鼓膜を打った。彼はとっさに、妹の頭を撫でる。その頭頂部の
「兄のほうの名は?」
「秋烟というんでさあ」
「そうさな、じゃあ彼の売り先は、役者の一座か、もしくは――
*****
それから、秋烟は妹と無理やり引き離されたあげく、伯父の手で都に連れて行かれた。
そして、宦官になるための手続きと準備のあと、「手術」を行う
彼を売った代金として、老いた宦官が伯父に投げてやった、小さな
秋烟はこれから起こることを事前に言い含められていたとはいえ、恐ろしさにがたがたと震えるばかりであった。
「後悔しないな?」
痩せて鋭い目つきの刀子匠に訊かれた言葉を最後として、身体の中心部を激痛が襲い――気を失う寸前、妹が連れて行かれるとき泣き叫んでいた、「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」という声が耳元に聞こえた。
そして、秋烟の記憶はしばらく曖昧になっている。自分にとって、よほどこの時期が厳しく、耐え難いものだったからだろうか――。
気が付けば、彼は宦官の見習いとして嘉靖宮の門をくぐり、下級宦官が身にまとう
自分が自分でなくなってしまったという不安、いくばくかの衣食住の保障と引き換えに宦官になったことで、生涯にわたって人間扱いされなくなってしまったという悲しみと屈辱感――。
そんな諸々の気持ちを抱えたままま、秋烟はどことなく虚ろな顔で、同じく入宮したばかりの宦官見習いたちとともに、列に並ばされていた。
折しも、空には低く灰色の雲が立ち込め、自分の将来を祝福しているどころか、まるで呪っているかのようにさえ見えた。どこからか聞こえてくる、
だが、秋烟は今でも忘れない。
そんな
「同期の宦官同士だね、せっかくだから仲良くしようよ。君、名前は何ていうの?」
にっこり笑いかけて来た彼を見たとき、幻覚ではなく、心の暗雲の隙間から、一筋の光が降り注いできたように感じたのだった。
――秋烟、湯秋烟というんだ。よろしく。
――俺は謝朗朗、
外貌ばかりか、口調も朗らかそのものの朗朗の存在は、不安で縮こまっていた秋烟の心を温め、ほぐしてくれた。
それ以来、二人は見習い期間中も、周囲の同輩たちに冷やかされるほど仲良く過ごした。笑い声を上げながら
だが、やはり宦官の見習い期間は、想像以上に過酷なものだったのである。
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