花の色は移ろっても、なお花なり ~『王妃さまのご衣裳係』シリーズ外伝~

結城かおる

第1話 秋烟懐旧

 その日、夜中から降り出した雨は、嘉靖宮かせいきゅうの人々が起き出す頃には、すでに桶をひっくり返したような大降りになっていた。


「――ああ、嫌になっちゃうなあ」


 宦官部屋の窓から外を見ていた湯秋烟とうしゅうえんは、形の良い眉をひそめた。その視線の先では、紫陽花の植え込みが大雨に叩かれ、濃い青色をにじませている。

 彼は色白の面差しに憂いを漂わせ、ため息をついて窓を閉めると、身にまとった制服の襟もとを整える。


 扉の外では、自分と同輩かつ友人の謝朗朗しゃろうろうが、誰かと話しているようだ。「じゃあ」と声がした次の瞬間には、その同輩が片手に盆を持ったまま扉を開けて入ってきた。


「秋烟、朝餉あさげが来たぞ。今朝はこんな天気じゃ庭仕事もできないな、せっかくだからゆっくり食べようか」

 その名が示す通り朗らかな口調で告げた友人は、秋烟を一瞥いちべつしてぴくりと眉を上げた。


「何だ、やけに不機嫌そうな顔をしているな。まあ大雨の日はいつもそうだけど、秋烟おまえは」

「別に、いつもっていうことはないよ」


 ぶっきら棒に答えた秋烟は、かゆの碗二つと土瓶どびんが載せられた盆を受け取って、卓上に置いた。朗朗は小さな茶碗を棚から取って、土瓶の茶を注ぐ。


「……今日は後苑こうえんでたまっていた仕事を片付けるはずだったのに、この雨で予定がすっかり狂っちゃった。それが嫌なだけだよ。肥料を作る下準備とか、紫陽花を切って後宮の各殿舎にお届けするとかさ」

「そりゃそうだな。後で小降りになったら『師父しふ』のところに行けるけど、今は無理だ。まあ、仕方ないさ、遅れた分は後で働いて取り返せばいいだけだし」


 朗朗はさばさばした口調でそう言うと、匙で干し海老入りの粥をすくって食べ、「うまい」とにっこりした。いつもだったらこのようなとき、秋烟は朗朗に微笑み返すのに、今日はむっつりとした表情のまま匙を動かしている。


 ――本当は、仕事が遅れるせいじゃない、大雨が嫌なのは。あの日をどうしても思い出すからなんだよ。


秋烟はうつむき、右の袖の上から腕を押さえた。そこには一条の古傷がある。彼が脳裏に呼び起こしたのは、昔のつらい記憶の残像だった――。


*****


「それにしても、どうにも困っちまったものだねえ。あの子たち、もとから母親がいないっていうのに、今度は父親が出稼ぎに行ったきり、帰って来ないんだって? 

「ああ、もう半年になるんですよ。生きてるのか死んでるのか、それすらも分からないと来ている。でも、うちにはもうこれ以上、この子たちに食べさせるものなんてなくて、ほとほと困っていて……」


 薄暗い土間の片隅で、十歳ほどの線の細い、色白の少年はすすり泣く少女を胸に抱きながら、うずくまるようにして座っていた。

 農夫の伯父とその妻は、中年の来客相手にぼそぼそ喋っている。客がこちらにつかつか歩み寄って兄妹を覗き込むようにすると、少年はびくりとして、少女に回した腕に力をこめた。その客は細い眼をさらに細め、薄い唇をふっとゆがめた。


「ふむ。二人とも痩せっぽちで汚れてはいるが、磨けばなかなか綺麗な顔立ちなのでは?」

「あの子たちの母親は、それなりの美人でしたよ。なのに悪い男に引っかかって、苦労のあげく早死にしちまったんでさあ」

「女の子――紅児こうじといったかな? 妓楼に連れて行けば高く売れるかもしれん。もし何だったら、私が連れて行ってやってもいいさ」

「本当ですか? 旦那」


 問い返す伯父の明るい声が、残酷な響きをもって秋烟の鼓膜を打った。彼はとっさに、妹の頭を撫でる。その頭頂部のまげには、彼が結わえてやった赤い紐が揺れていた。


「兄のほうの名は?」

「秋烟というんでさあ」

「そうさな、じゃあ彼の売り先は、役者の一座か、もしくは――宦官かんがんというところかな。いま王宮では宦官を集めているらしいから、ものは試しで……」


*****


 それから、秋烟は妹と無理やり引き離されたあげく、伯父の手で都に連れて行かれた。

 そして、宦官になるための手続きと準備のあと、「手術」を行う刀子匠とうししょうのもとへ引き出された。


 彼を売った代金として、老いた宦官が伯父に投げてやった、小さな銀塊ぎんかいが机にぶつかる「かつん」という音が、秋烟の耳に残っていた。


 秋烟はこれから起こることを事前に言い含められていたとはいえ、恐ろしさにがたがたと震えるばかりであった。


「後悔しないな?」


 痩せて鋭い目つきの刀子匠に訊かれた言葉を最後として、身体の中心部を激痛が襲い――気を失う寸前、妹が連れて行かれるとき泣き叫んでいた、「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」という声が耳元に聞こえた。


 そして、秋烟の記憶はしばらく曖昧になっている。自分にとって、よほどこの時期が厳しく、耐え難いものだったからだろうか――。


 気が付けば、彼は宦官の見習いとして嘉靖宮の門をくぐり、下級宦官が身にまとう薄藍うすあいの制服を身にまとっていた。


 自分が自分でなくなってしまったという不安、いくばくかの衣食住の保障と引き換えに宦官になったことで、生涯にわたって人間扱いされなくなってしまったという悲しみと屈辱感――。


 そんな諸々の気持ちを抱えたままま、秋烟はどことなく虚ろな顔で、同じく入宮したばかりの宦官見習いたちとともに、列に並ばされていた。

 

 折しも、空には低く灰色の雲が立ち込め、自分の将来を祝福しているどころか、まるで呪っているかのようにさえ見えた。どこからか聞こえてくる、雲雀ひばりの鋭い鳴き声すらも、不安に揺れる自分の心を脅かした。


 だが、秋烟は今でも忘れない。

 そんな欝々うつうつとした自分の隣にいたのが、快活な表情とその口元から覗く白い歯が印象的な、同じ年頃の少年だったことを。


「同期の宦官同士だね、せっかくだから仲良くしようよ。君、名前は何ていうの?」


 にっこり笑いかけて来た彼を見たとき、幻覚ではなく、心の暗雲の隙間から、一筋の光が降り注いできたように感じたのだった。


 ――秋烟、湯秋烟というんだ。よろしく。

 ――俺は謝朗朗、英州えいしゅうから来た。『しゅうえん』か、いい名前だね。


 外貌ばかりか、口調も朗らかそのものの朗朗の存在は、不安で縮こまっていた秋烟の心を温め、ほぐしてくれた。


 それ以来、二人は見習い期間中も、周囲の同輩たちに冷やかされるほど仲良く過ごした。笑い声を上げながらすももの下を駆け抜け、海棠かいどうの花をともに見上げ、百合の花の咲く池のほとりを歩き――。


 だが、やはり宦官の見習い期間は、想像以上に過酷なものだったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る