一年遅れの(真弥視点)

 離婚した後の和成は、前よりも優しくなっていた。


 こんなことを言うのもなんだけど。

 もしも籍が同じままのときにわたしが死んだら、和成はわたしの墓参りをしてくれただろうか。いや、葬式すらもしてくれなかったかもしれない。

 八分はちぶの仲違いどころじゃなかったと思うからだ。


 一緒に住んでいても、身体を重ねたとしても。

 わかり合おうという意思がそこになければ、心など通じるわけがない。

 和成も、そしてわたしも、お互いに何かに没頭していないと、不安、苛立ち、やるせなさに負けそうだったから。

 離婚前までは、お互いの身体を使ってごまかしていただけだ。


 なのに。


 和成に捨てられる不安も。

 和成を裏切った申し訳なさも。

 和成がいなくなる恐怖も。


 尚紀が目の前で刺されたあの時に、すべてふっとんでしまった。


 尚紀を刺した、麻里という女性は。

 あのあと駆けつけた警察官に現行犯で逮捕された。


 それまで、逃げるわけでもなく、暴れるわけでもなく、ただ茫然自失だったその女性は。

 逮捕され、連行されるその時、いきなり錯乱したかのように泣き始めた。

 これ以上なく、悲しそうに。


 薄情なことにわたしはその時、尚紀は刺されても仕方ないと、心から思ったのだ。

 愛する女性を裏切り、あまつさえこんな悲しい泣き方をさせたのだから。


 それからしばらくして、泣き止んだ女性は、虚無としかいいようがない目で連行された。

 わたしはそれを見てぞっとする。


 浮気がバレた直後の、和成の目を思い出したから。


 本物のバカだ、わたしは。今頃気付くなんて。

 和成は、もうすでに、心の中でわたしを刺し殺していたんだ。和成の中では、わたしはただの生ける屍。

 とてもじゃないけど夫婦としてやり直せるわけがない。


 それと──もし和成に殺されるなら、それでもいいと思ってた私の浅はかさも、同時に思い知る。

 もしも和成がわたしを殺したら、殺した後の和成はきっと、麻里という女性と同じようにこれ以上悲しくなく叫ぶことだろう。

 こんなだめなわたしと結婚してくれるほどに、情の深い人だから。


 いや、今でもわたしの知らないところで、きっと泣いているに違いない。


 だからわたしは、離婚を決意した。

 浮気してきっと、わたしの知らないところでこれ以上なく悲しそうに泣いたであろう和成を、さらに悲しませないために。



 ―・―・―・―・―・―・―



 残念ながら、わたしを殺そうと牙をむいてきたのは、和成ではなく乳がんだった。和成以外に命を狙われたら、やっぱり怖くなる。

 これもわたしの罰には違いない。浮気せず、和成と子作りに励んでいれば、ひょっとするともっと早くに発見してくれたかもしれないけど。


 なんて皮肉な結果だろう。

 すべてが因果応報、自分に返ってきた。まわりにはだれも、わたしを愛してくれる男の人はいなくなっている。


 ──もう、いいや。


 半ば自暴自棄で、希望など何も見えないまま勝手に人生をあきらめていた闘病中のわたしの前に、ある日前触れもなく和成が現れた。

 きっと父が何か言ったのだと思うが、見舞いに来てくれたことは、素直にうれしくて、素直にありがたかった。


 だけど、どうせ許されないなら、このまま忘れ去られるだろうと。

 わたしはそのうれしさを前面に出すことができない。


 そんなわたしに和成は、はっきりと言ってくれた。


『なにがおかしい。慰謝料踏み倒したままあの世に逃げようったってそう甘くねえぞ。どうせ死ぬなら、ちゃんと罪を償ってきれいな身体になってから死ねよ。このまま死んだりしたら、おまえの墓参りなど絶対にしないからな』


 つまり、慰謝料を払えば、和成はわたしを赦してくれる。

 わたしが死んだら、墓参りまでしてくれる。


 そう言ってくれたも同然の言葉に、わたしは呆けた。

 そして、嬉しかった。

 このまま死ねないと本気で思った。


 もう二度と夫婦になれることはないけれど。

 もし、和成に赦されるのなら──わたしは、なんでもできる。


 がんに打ち勝つことですらも。



 ―・―・―・―・―・―・―



 そうして息を吹き返したわたしは、こつこつと慰謝料を払い続け。

 次の返済で、全額払い終える時期まで来た。


「……こんなに早く、赦される時が来るなんて、不思議だね」


 ただのひとりごと。今、自分の部屋に居るのだから、つぶやいたところで誰も聞いているわけがない。

 このまま払い終えてしまうのも、なんだかもったいないような気がするから、つい言ってしまっただけだ。


 ひと月に一度、和成とふつうの会話ができる時間は、それだけ楽しかった。生きがいと言ってもいいくらい。


 ──もう夫婦に戻れなくても、こうやってとりとめもない話ができる関係は、続けられないのかな。これですら高望み過ぎるかな。


 そんな都合のいいことを思いつつ、ふと壁に貼ってあるカレンダーを見ると。


「……あっ」


 わたしと和成の、元・結婚記念日が近づいていることに、気づいた。


「……そうだ。最後の支払いには、和成の好きなヒレカツを揚げて、和成の好きなお酒を持って行こう、そうして、わたしの心の中だけでも、ささやかなお祝いを……」


 もちろん、またまたひとりごとだ。だいいち、結婚記念日のことを和成に言えるわけがない。

 だけど、せめて。わたしが和成に許されるなら、結婚記念日その日を選びたい。


 などと。

 柄にもなく、勝手に、わたしはうかれていた。




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最後の『マインド・スワップ』です。

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