失った愛の夢
いろいろ悩むところも多いまま、一か月があっという間に過ぎ去り。
真弥が、慰謝料の手渡しに家へとやってきた。
手渡しで返したい、という真弥の申し出を了承したのだから、拒否はできない。まあするつもりもないが。
すったもんだの末に真弥と離れて暮らし、心のほうも落ち着いてきたように思える。
不思議なことに、離れて暮らすだけで怒りや恨みつらみがそれなりに小さくなるものだ。
最初からこうしていればよかったのかもしれないが、今さらである。
唯一の問題は、性欲がたぎったときに解消する手段がないということくらいだな。
「……今月分、です」
おっと、不埒な欲望にとらわれてる暇はない。
真弥は勝手知ったる俺の家のリビングに入り、結婚時と同じ場所の椅子に座った後、金の入った封筒を差し出してきた。俺は慌てて現実へと戻る。
「……確かに。お疲れ様でした」
ごまかしたりしているとは思わなかったので、俺はおざなりに中身を数え、受け取り完了の意を示した。
ついでにくっつけた言葉は、ぶぶ漬けでもいかがですか、みたいなニュアンスである。
だが、真弥は立ち去ろうという気配を微塵も見せない。
「……少しの間、ここにお邪魔させてもらっても、いいですか」
「どうかしたか?」
「いえ……なんだか、懐かしくて」
しみじみとそういう真弥の心境はいかなるものか。
俺も俺で、真弥が座っていた椅子に、そのままクッションを変えず置きっぱなしにしたままだった。別に未練とかがあるわけじゃない。どうせ誰も座らないのだからそのままにしておいただけだ。
「……お好きなように」
それでも真弥に対し、自然とそんな言葉をかけてしまう自分に少しびっくりする。
茉莉さんに言われた言葉が引っ掛かっているせいかもしれない。
まあ、不思議と不快な思いはない。一応今の真弥は客人だ、お茶くらいは出してやるとしようか。
そう思って俺が席を立とうとすると、真弥がそれを止めてきた。
「……あ、よければ、私がお茶を入れます」
「客人にそんなことさせるわけにいかない」
「……そう、ですか。じゃあ……」
いちおうけじめだけはつけないとならないので、お断り。
俺は大雑把に真弥用の紅茶を淹れ、自分はインスタントコーヒーで済ます。
ついでに、改めて考えた。
真弥に出すお茶を入れてる自分が、これほどまでに穏やかな気持ちを保てるというのはどういう意味なのだろう。
真弥は『もう他人だ』と割り切った末での、境地みたいなものだろうか。
それとも、感情を前面に出すことに飽きただけか。
それとも──
おぼろげに考えてもよくわからない。多分俺は自分に戸惑っているんだ。
だからだろう、お茶をしながら、真弥と世間話などをしてしまったのは。
そして真弥も真弥で、何かを都合よく受け止めたのかもしれない。
「……また、ここにお邪魔しても、いいですか」
この家を出る際に、そんなことを言ってきたくらいだから。
「もう、あなたとは恋人にも夫婦にも戻れないことはわかっています。でも、あなたとの縁が切れることは、素直に嫌と思える私がいることは確かなんです」
「……」
そう言われ、俺の心の腑に落ちない部分が、少しだけ見えた気がした。
勝手なことを、と遮らずに、もう少し真弥の言葉を聞いてみよう。
「もちろん迷惑なら、やめます」
だが、そこから真弥が続けた言葉はそれだけだった。
その言葉の奥に眠る深い意味を考えるのもただただ面倒くさい。
「……やめるというのは、慰謝料を踏み倒す、ということか?」
「い! いえ、そういうわけでは……」
「……なら、慰謝料を払いに来る時くらい、別に構わない」
「!!」
だから、そのくらいは赦すさ。
──もう、失った愛の夢が醒めるときを迎えたんだからな。
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