違う方向へと、前を向く

「真弥さん、退院したようですね」


 とある日曜のお昼過ぎ。

 どちらからともなく示し合わせて一緒に出掛けた茉莉さんからそう言われ、俺は面食らった。


「……なんで茉莉さんがそれを」


「兄から、聞きました」


「桂木の奴……」


 余計なことをしてくれる。

 そう思うも言葉は続けず、すでに知ってしまったことをなかったことにはできないわけで、俺は開き直った。


「……まあ、そうらしい。些細な一言で、人間の状態って変わるもんなんだな」


「それは……そうですよ。肉体っていうのは、心に支配されているんですから」


「深い言葉だけど、まったくもって同意しかない」


 心という名の自律神経が、身体を支配している。

 だからこそ、人間は病む。


「……で、どのような言葉をかけたんですか? 和成さんは」


 ああ、やっぱりそうツッコんできたか。別に聞かれて困るわけではないが、自分から進んで言いたくもなかったことだ。

 まあいい。


「……べつに、どうということはない。もし真弥が死んだら、墓参りくらいはしてやると言っただけだ」


「それは……」


 そこで茉莉さんが言葉を詰まらせ、不思議に思った俺はまじまじと茉莉さんの顔を見つめてしまう。

 すると、少しだけ顔を赤らめた茉莉さんが、取り繕うようにつづけた。


「……その言葉は、真弥さんが『ゆるされた』というふうにとらえても、おかしくないですね」


「そうかな?」


 許す許さないという問題ではないようにも思える。

 ただ、茉莉さんには思うところがあった、というだけだろう。


 だけど、そう言われてみると。

 離婚して独り身の上に病気も患って慰謝料も払わなくてはならなくて、少なくとも何も考えずのほほんと暮らすことなど夢のまた夢であろう真弥にとって。

 俺に赦されることと自分が救われて楽になることは、同義なのだろうから。


 赦しを請うのは、自分が楽になりたいから。


 ──はっ。結局、真弥は自分のことだけだな。相変わらず。


 そう思う自分がいる反面。


 ──まだ俺の人生終わったわけじゃないんだ。俺もそろそろ真弥を赦してやってもいいんじゃないか。いつまでも他人となった真弥の過去の裏切りにとらわれてても仕方ないだろう。


 そんなことまでも対で考えてしまう自分も確かにいて。


 いったい、俺はどうしたいのか、わからなくなる。


「……まあでも、和成さんは」


「んあ?」


 不意に茉莉さんの声が、俺の葛藤に割り込んできて、変な声で返事してしまったが。


「真弥さんを赦して、前へと進んだ方がいいの、かも、しれませんが……どうでしょう、ね?」


 たどたどしく、そう同意を求めてきた。


 過去に、俺と同様、裏切られた経験のある茉莉さんがわざわざ俺に言ってきたその言葉はどういう意味だろうか、と。

 帰宅してからも俺は考え続けるしかなかった。

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