衝撃

 前を向く。

 言葉だけなら、なんとたやすく思えるだろうか。


 だが、俺はいまだに動けないでいる。 真弥のこと、そして茉莉さんのこと。


 今の俺の一番近くにいる異性は、茉莉さんだ。

 そこに恋愛感情というものは微々たるものしか存在しないにしても。


 その茉莉さんと、もしも、もしもの話だが。

 俺が前を向いて生きていくために、お互い必要なパートナーになるとすれば、今の俺を縛っている心の中の真弥を何とかしなければならない。

 ……まあ、桂木のことを『お義兄さん』と呼ぶのが癪に障る、ということは置いておくとしよう。


 真弥のことがいまだに心の中に残っている理由を、自分なりに考えない日はなかった。


 俺は真弥を愛していたのに、真弥は俺を裏切った。


 ──ぶん殴ってやればよかった。


 真弥は俺を裏切っておきながら、なぜか未練たらしくすがってきた。


 ──人生をかけて償うという言葉は嘘だったのか。


 そのくせ、尚紀の死を目の当たりにして、あっさりと別れを選択してきた。


 ──しょせん口だけだったか。


 命というものがかかった状況なら、その人間の本性もあらわになるというものだ。

 結局は、真弥にとって俺は命を懸けるような存在ではなかったということ。


 ──くそったれ。真弥は、なんで俺を捨てた。


 誰もいない自宅でそんなことを考えていた。

 ローンの残った家だが、一人で済むには分不相応である広さにいまだ慣れない。


 引っ越すべきかどうかを真剣に考えようか、と思った時、不意に来客を知らせるインターホンが鳴る。

 誰だろうかと思ってボタンを押すと。


『ご無沙汰しています。かずな……いや、小野君』


 来客は、真弥の父親だった。俺の声が冷たくなるのも致し方ないだろう。


「……何の御用でしょうか?」


『夜分にすまないね。いちおう渡すものがあってきた。いいだろうか』


 渡すもの。たぶん、真弥が払うといっていた慰謝料だろう。

 真弥に乳がんが見つかり入院したせいで、直接返しに来るという約束はうやむやになってしまったが。


「……どうぞ」


 なにやらやつれたように見える元・義父を、俺は迎え入れた。



 ―・―・―・―・―・―・―



「……真弥に、会ってあげてはくれないだろうか」


 とりあえず、いただくものはいただいた。

 その代わり、というわけではないのだろうが、元義父にそう切り出され、俺は少しだけ動揺した。


 落ち着け、動揺を悟られてはならない。


「……どういう、理由でしょうか」


「真弥は……前を向けてないんだ」


「……」


「気力がないとでもいうのかな、何をするにも、気力がない」


「……俺と顔を合わせれば、気力が戻るとでも?」


 何が言いたいのか元義父の話を理解できなかった俺は、動揺を悟られないようにと、できるだけ冷たくそう言い放つ。


「……それはわからない。だが、真弥は何もかも失ってしまった。おかげで治療にもあまり積極的ではなく、経過も思わしくない。だから、もちろん小野君も大事なものを失ってしまったことを承知の上で、親バカも承知の上で、なんとか真弥に前を向いてほしいと、それだけを願って恥を忍んでお願いしに来たんだ」


 

 それは今更なんだ。真弥の浮気が発覚した時点のことなのだから。


 その前提で、『前を向く』とはどういうことなのだろうか。

 ふと、それを考える。


 自分で考えると、『真弥のことを忘れて、恨みつらみを水に流して、新しい人生を生きる』という陳腐な答えしか浮かばないのだが。


 ──はっ、真弥を恨んでるということは、俺にとって真弥はいまだにどうでもいい存在じゃない、ということか。


 俺ばかり引きずってるようで、俺主導じゃなく真弥が離婚を望んだおかげで、割り切れない自分の女々しさが嫌になる。


「……わかりました。会うだけなら」


 自分自身が癪に障ったせいか、反射でそんな答えを出してしまった。

 真弥のことなんて、あっさり吹っ切ってやる。そんなふうに、へんな負けん気が俺を支配していたのだ。


 だが、病室で見た真弥を見て──俺は、衝撃を受けた。



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