辞世

「ぐ……」


「き……きゃあああああああ!!」


 一瞬の間をおいて、何が起きたのかを理解した真弥の叫び声が大きく響く。

 そして、尚紀を刺した麻里という言う女性は、冷たい声でぼそぼそと話し始めた。


「わたしはあなたに全て捧げた。心もお金も。なのに、尚紀はわたしになんにも返してくれなかった。こんなむなしいことって、ある?」


「ぐ……そ、そんな……」


「愛してくれるだけでよかった。それだけでわたしはよかった。一番になりたかったのに、あなたの心に入り込むことすらもできなかった。このままじゃ、なにもかもささげたわたしがバカみたいじゃない? だから尚紀、あなたはもう、わたしの心の中だけに生きて。そこから一歩も外に出ないで」


 麻里は、尚紀の身体に刺さった包丁を一度引っこ抜いた。

 鮮血がほとばしる様を見て、俺は我に返る。


 だが、俺が止めるよりも早く、麻里は再度、尚紀の腹に包丁を突き刺した。


「がああああ!!」


「お、おい、やめろ!! 桂木!! 手伝ってくれ!!」


 いまだ、予想だにしない展開に呆けている桂木を現実に呼び戻し、二人がかりでようやく麻里を羽交い絞めにして止めるも、すでに尚紀は虫の息だ。崩れ落ちるように膝をついて倒れこむ。


 女性とは思えないほどの恐ろしい力で、大の男二人でも止めることが困難なほど、麻里の力は強かった。

 明確な殺意を持った人間というのは、これほどまでに人間の常識を超えるのか。


「う……う、ううう……」


 尚紀の肝臓のあたりに包丁が刺さっているのは非常に危険だ。出血がひどくて助からなくなるかもしれない。


「い、いてえよ……死に、たく、ねえよ……俺は、死にたくねえ……た、す……」


 尚紀が息も絶え絶えに命乞いしている目の前のこの現実に、俺は痛感した。


 殺したいと思ったことは確かだ。実際殺してやりたい気持ちは消えない。

 だが、目の前で本当に人が死にそうなこの現実は、日常からあまりにかけ離れていて、あまりにも残酷すぎて、鮮烈すぎて。


 俺の覚悟なんて、真弥や尚紀を殺してやりたいと思っていた気持ちなんて、しょせんこの程度だったのか、と。


 そんなビビった俺など知ったことか、といわんばかりに、尚紀から流れるおびただしい量の血の色が生々しくあたりに広がっていき。


「……み……づ……」


 やがて、尚紀は動かなくなった。


 そこから、俺たちがサイレンの音を認識するまで、どのくらいの時間がたっただろう。その間、真弥は気を失った方が楽なくらいに顔を青ざめさせ、ガタガタと震えるだけだった。


 尚紀は、おそらく助からない、ように思う。

 そうなれば、俺たちも無罪放免、無関係ですとはいかないだろう。特に桂木は、尚紀に暴行を加えているのだ。共犯と思われても不思議じゃないはず。


 それでも。

 死というものを意識した恐怖を前にして、ようやくなにか腹をくくれたような自分がいることも、われながら不思議だった。





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