急
見えない壁
第三章、開始です。
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あまりよくない目覚め。これから何をどうすべきか、はっきりと考えがまとまらないままに寝てしまったせいだろう。
まとまらなくて当然だ。そんなに簡単にまとまるのであれば、今までもこれほど苦労などしない。
頭も身体も重だるいが、それでも会社に行った方が、家にいるより精神的に休まるのだ。人間、肉体的な疲労より、精神的な疲労のほうがつらいものである。
軽く伸びをした後に隣のベッドを見てみると、真弥はすでにいなかった。
まだ朝の六時にもならないというのに、殊勝なことで。
俺は、とりあえず出勤準備のために、リビングへと降りた。
「……おはよう、ございます」
すると、少し長めの髪を軽くまとめてキッチンに立っていた真弥が、俺が起きてきたことに気づいて、ぎこちない笑顔を浮かべながら挨拶してきた。
真弥が抱く罪悪感を薄めて、俺への未練を断ち切らせるつもりなら、わざわざここで悪態をつく明確な理由はない。
「ああ、おはよう」
いたって普通の。夫婦であって家族であれば、普通のやりとり。
だが、こんなふうに、なにかがふっきれたような朝は、いつぶりだろう。
怒りも悲しみも、どうしようもない焦燥感も、確かに一瞬だけ消え失せていた。
──おいおい。絆されてどうする、俺。その前に、これからのことを決めろ。
ちょっとだけそう思いなおしたが、けだるい目覚め直後に朝から無駄な体力を使うつもりはなかったので、そのまま俺は真弥が用意した朝食を食べた。
なぜか、普通に食えた。
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「今日は、何時くらいに帰ってきますか」
「わからない。残業がなければ七時前には帰れるとは思うが」
「では、残業になるときだけ、連絡をくださいますか」
玄関先で、ぎこちなくやり取りをする。真弥はかいがいしく、弁当まで用意してきた。
弁当を食うかどうかはともかくとしても、一応それを手に取り、俺は靴を履きながら真弥へと返事をする。
「わかった。真弥は何か今日の予定はないのか?」
「……わたしは……」
そこで言いよどむ真弥の様子で悟った。
「ああ、そうか。今日は婦人科へ行く日だな」
尚紀との子供を堕ろしてから、何か調子が悪いらしく。真弥は婦人科へと定期的に通っていた。
そのことが俺に一連の浮気騒動を思い出させると思ったから、真弥は言いづらそうにしていたのだろう。
「……はい」
「なんだ、まだ調子は良くないのか?」
なんというか不思議なもので。
今の俺は、冷静でいようとすれば、その状態が維持できるらしい。
単に、怒るだけのパワーが尽きたとも言えなくもないが。
「そういうわけではないです……ただ、不安なだけで」
「……」
何が不安なのかは聞かなかった。推測できるからだ。
おそらくは、もう子供を宿せないかもしれない、という不安だろう。
それが自業自得であろうとも、子供を宿せないということは、男が考えてるよりも女にとってはるかに重いことだけは漠然と理解できるから、俺は何も言わなかった。
どのみち、真弥が俺との子供を宿すことはもうないだろうし、責めても仕方ない。
「……じゃあ、いってくる。体調が悪いなら、家のことは無理しなくていいから休んでろ」
「い、いえ、だいじょ……」
「いちおう夫婦ではあるんだから、もしも真弥が倒れたら俺が介抱しなければならないだろ。そうしたくないから言ってるんだ。いいか、体調が悪いなら絶対に無理だけはするな」
これをつんでれと思えるほど、今の真弥は厚かましくないはずだ。言いきっても構うまい。
「……はい。お気遣い、ありがとうございます」
その言葉だけを聞き届け、俺は玄関を出た。
──普通の夫婦を演じるってのも、なかなかに骨が折れるもんだな。やはり仕事してた方がはるかに楽だ。
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