抱ける?
なんとなく、この場から離れたほうがいいような気がして。
俺は半分も吸ってないうちに、ラッキーストライクを灰皿に押し付けて火を消した。
「……じゃあ、俺は失礼する。茉莉さん、ごめんね」
その『ごめんね』は、桂木を残業させて茉莉さんを待たせてしまっていることへの謝罪のつもりだったのだが。
「……いえ。わたしこそ、ごめんなさい。へんなこと言っちゃって」
どうやら茉莉さんにはそのような形で受け取られなかったようだ。
それも当然か。なんせ桂木が残業する羽目になった理由を説明してないわけだからな。
「いや、気にしなくていいよ」
だから、これでチャラだ。
そう割り切って、茉莉さんに背中を向けたその時。
「……和成さんは!!」
いきなり大きい声でそう呼ばれたので、思わずびっくりして振り返ってしまう。
茉莉さんと目が合い、お互い少しの時間硬直してしまったわけだが、このままじゃただの情緒不安定だ。
「なに、かな?」
どうしても聞きたいことがあったんだろうとは容易に推測できる。ならば、茉莉さんが聞きやすいように誘導するしかない。
できるだけ優しい声でそう尋ねてみたのだが。
「和成さんは……真弥さんを、抱きたいと、今でも思っていますか?」
なんでこうも、茉莉さんは俺が返答に困る質問ばかりしてくるのだろう。
以前話したときはもっと俺のことを気遣ってくれていると思ったのだが、今は完全に俺を追い詰めてるようにしか見えない。
『勃たないから、むりだ』
そう言いかけて、やめる。
勃たないなどという、男としてのプライドを考慮しない発言をしたくなかったせいか。それとも、勃つならばきっと抱いている、と思われたくなかったせいなのか、わからない。
「……浮気が発覚する三か月前からきょうまで、俺は真弥を一度も抱いてないよ」
少しばかりの逡巡の末に、俺は事実だけを述べることにした。
「……それは、抱けないということですね?」
「……」
結果として、濁した意味はなかったかもしれない。
だが、茉莉さんの発言も、どう受け取っていいかあいまいなものだった。
──真弥が汚いと思うから、勃たないから、抱けないのか。それとも、真弥を抱いて、尚紀と比べられるのが怖いから、抱けないのか。
ただ、なんとなく。
茉莉さんは、後者の意味で、俺に言っているような気がした。
だからこそ、俺も訊いてみる。
「茉莉さんは、どうだったの?」
「……わたしは……」
茉莉さんは言いよどむが、言いづらいから、というわけではないのだろう。
言葉を必死に探して、少しの間を置いた後、こうはっきりと言った。
「少しばかり残っていた愛情をはるかにしのぐ、怒りと、悲しみと、むなしさと──怖さ。それがごちゃ混ぜになって、わたしはだめでした」
──怖さ、か。
茉莉さんはおそらく、俺が茉莉さんと同じ心境に置かれていることを確認したくて、そんなことを訊いてきたのだろう。
そう、確信した。
こんなところで、傷の舐めあいをするもんじゃない。
「そっか。じゃあ、こんどこそ」
俺はそう言って、今度は絶対に振り返らないと決意し、喫煙室を出た。
茉莉さんは、もう何も言ってこなかった。
なぜだろう。
やけに、引っかかる。少しばかり残っていた愛情をはるかにしのぐ、という言葉が。
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