第4話

 結局二人は、希の研究室に逆戻り。

 気絶している蒼維は、大輔が背中に背負って運び込んだ。

 可憐の一撃がよっぽど堪えたのだろう。彼は少しも動くことなく、両手両足全身脱力状態で、傍から見ると本当に死人みたいだった。

 彼は「焔」の魔法使い――要するに炎を主な攻撃要素としているタイプだから、「雫」の可憐とは、魔法で対決した場合は最初から相性最悪だった。

 再び現れたボクと大輔に、希は最初、目を丸くして不思議そうな表情だったが……大輔が背負っている少年を確認すると、持っていた書類を床にぶちまけて、声を震わせる。

「蒼……ちゃん……どうして?」

 勿論希も、彼とは知り合いだ。かつての友人に負かされた姿を見て、愕然とするのは当然の事だろう。

「さて。ボクが聞きたいよ。希、彼はいつ、「アスタリスク」から出てきたの?」

 どうやら希も、彼がいつ、外に出てきたのか知らなかったらしい。数回首を振って、動揺した自分自身を取り戻すと、

「……隣、行きましょうか」

 促されるまま、希の要塞本部隣室、小会議室というプレートが掲げられた部屋に移動。

 中の広さは学校の教室半分ほどで、長机が一つと、椅子が六つ、雑然と並べられているだけの殺風景な部屋だ。

 とりあえず椅子を二つ並べで、その上に彼を寝かせる。まだ座れるほど体の機能が回復していないから。

 希はこんな場合でも、お茶と軽食の準備に行ってしまった。しょうがない、今日の昼ごはんは毎度おなじみ、一階喫茶店のサンドイッチで妥協するかー……。

「……俺は、自分の判断は間違ってなかったと思う」

 静まり返った室内、唐突に、大輔が口を開いた。

 気絶したままの蒼維、横にしゃがんで彼の顔で遊んでいた可憐は……真剣な彼の言葉に、立ち上がる。

 視線を合わせるため上を向くと、眼鏡奥の瞳と、視線が交錯した。

「正直、あれはアウトだったかもしれない。俺は可憐に、蒼維を殺すように許可を出すべきだったかもしれない、だけど……」

「……分かってるよ。ボクだって、蒼維を殺したくなかった」

 可憐の表情に、いつもの笑顔が戻っている。それを確認した大輔は、内心ほっとした。もっとも今は、苦笑に近いのだが。

「でも、大輔にしては珍しいね。そういうこと、結構割り切って考えるほうだと思ったけど」

「……かも、な」

 ずれた眼鏡をなおし、一度、ため息をつく大輔。

 可憐の目は、相変わらず、彼を真っ直ぐに見つめていた。

 ――と、

「失礼しますっ!!」

 扉を豪快に開き、女性が一人、部屋の中に駆け込んでくる。

 髪の毛を結い上げ、意志の強そうな瞳が印象的な彼女は可憐たち仲間であり、友人でもある顔見知り。蒼維とも関係の深い人物であるので、大輔に連絡をお願いしていたのだ。

 今日はブラウンベロアのジャケットの下にボーダーのハイネック、サイドにあるポケットが特徴のハーフパンツにショートブーツ、肩からワンショルダーのバッグを引っ掛け、快活な彼女を表すようなスタイルでまとめている。カッコイイ(イイ意味で)顔とアスリート体型、定着してきたポニーテールが、その印象を決定付ける役割を果たしているのは余談だが。

 彼女の名前は響古。竹をすぱっと切ったようにあっさりさっくりした言動と、誰とでもわけ隔てなく接することが出来る爽快な性格の持ち主であり、大輔と同く現役女子高生ながら「国家公務員」としても活躍中。

 可憐は、すっかり息を切らせている彼女にひょいっと片手で挨拶すると、

「響古、早かったね。もしかして走ってきた?」

「ば、バス停から全力疾走よ……新記録更新かもね」

 男前に持っていたペットボトルからスポーツドリンクを喉に流し込むと、椅子の上で寝ている人物、その彼に気がつき、危うくペットボトルを取り落としそうになる。

 表情をクルクルと変える様子は、見ていて飽きないのだが……今の顔は、明らかに落胆。

 こんな形で会いたくなかった、そう、訴えるかのような。

「本当に、蒼維?」

「確認してみれば? 結構カッコよく成長してるよ?」

 促されるように、彼女は蒼維に近づいて……そして、

「――起きろこのバカっ!!」

 刹那、響古は何のためらいもなく、彼が全体重をあずけている椅子を二脚とも、テーブルクロス引きの要領で豪快に後ろへ引っ張った。

 無論、寝ていた蒼維は抵抗も出来ないまま床にべちゃりと着地。

「うーん……華麗だったね。☆三つ」

「止めろよ」

 大輔が呆れ顔で頷く可憐を諌めるが……一気に何かが沸騰した響古は、痛みに気がついて起き上がった蒼維のむなぐらを、これまた男前にがしっと掴んで、

「今まで何してたのよあんたは! あたしがどれだけ探し回ったと思ってるの!?」

 さすがの蒼維も、「んあ?」と情けないうなり声を出しながら、ぼんやりと瞳を開くと……自分を鬼気迫る顔で押し倒している響古を確認し、

「あ、響古ちゃん。相変わらず美人だね」

「その口塞いでやる!! 何もいえなくなるようにしてやるっ!!」

 響古の性格が「少し熱くなりやすい」ことは重々承知していた可憐だが、このオーバーヒートぶりには、さすがに戸惑いを隠せないまま。

「ちょっ……響古、どうしたのさ、一体」

「どーしたもこーしたもないわ! 可憐、コイツはねぇ……「アスタリスク」から無断で抜け出して来てんのよ!!」  


 戻ってきた希が、全員の前にサンドイッチと紅茶を配膳して。

「今回が蒼ちゃんの退所祝いなら、もっと嬉しかったのにね」

 上座に座り、左隣にいる蒼維へ苦笑いを向けた。

 その隣には響古。彼が逃げないよう、殺気さえ込めた瞳で睨みながら監視している。二人の正面には可憐と大輔。

 当人である蒼維は、相変わらず、全く悪びれた様子のない口調で、

「希さんは、相変わらず綺麗で優しいですね、こんな僕にも紅茶とサンドイッチを用意してくださるなんて」

 一階から彼女が買ってきたサンドイッチを、笑顔で口に放り込む。

 そんな蒼維に、希も笑顔でこういった。

「毒を入れるなんて卑劣な真似はしてないから、安心して食べてね」

「……本当に変わってませんね、希さん」

「そうかしら。でも、蒼ちゃんはすっかりカッコよくなっちゃったわね」

「希さんのことを、毎日考えていましたから」

「あらありがとう。お姉さん、嬉しくなっちゃうわ」

 このまま談笑が始まりそうな勢い。

 それを食い止めるべく、響古が横から蒼維を肘でつつき(実際は攻撃力抜群)、

「目的を聞かせなさい。可憐を襲ったってどういうこと?」

 彼女の質問はもっともである、全員の注目を浴びた蒼維はふと、正面にいる可憐に視線を向け、

「だって可憐ちゃん、「機構」のイヌになってるじゃないか。そんなの、僕は許せないからね」

 彼が先ほどから頻繁に使う「機構」という言葉は、「覚醒機構」と呼ばれる集団を指す。

 「覚醒機構」というのは、魔法と科学の融合を主眼においた研究者たちの集団だ。それこそ行政委託で様々な研究開発を行い、この都市にあるような近代的代物を次々と実用化に至らせている。

 彼らが主に取り組んでいることは、「魔法使いとしての素質がない人間にも、何か特殊能力を与えられないだろうか」ということから始まった、言ってしまえば途方もない研究である。しかしこれも、決して非現実的な研究テーマというわけでもなく……例えば、身体障害のある人が少しでも自力で生きられるよう、人間の中に秘められている潜在能力を、自然治癒力なんかをもっと活性化させるためにはどうしたらいいか、など、そういった分野にも力を入れている。

 勿論、この研究が許されているのは、この都市内でも限られた人間だけ、「覚醒機構」という組織に籍を置く研究者だけだ。力をつけた人間が、傲慢になって暴走しないという確約はない。それに……人間が人間に手を加えるというのは、いつの時代でもタブー視されやすいから。

 そして、「アスタリスク」とは……「機構」の研究対象者が暮らす、大きな病院(実際は研究所)と併設された施設のことだ。

 つい数年前に、建物の老朽化を原因に市街地へ移動したのだが、可憐たちがそこにいたときは、周囲から明らかに隔絶された山の中腹にあり……遊び場所といえば、近くにある自然公園程度。山を駆け回って怒られた記憶しかない。その時に今の身体能力が培われたのかもしれないが。

 ちなみに、この都市で言う魔法使いは、根本的な違いにより、二種類に分類されている。

 一つは「魔技師」。それは、体の一部に機械を内臓した人間のこと。

 魔法を使えない者がたどり着いた、1つの結論でもあった。

 そして、もう一つが「魔持師」。最初から不可思議な力を操れる人間を指す。

 魔法を「保持する」者と、「技術」によってフォローする者、2者が互いにバランスを保つことによって、都市の平和は維持されてきた。この両者を総合して「魔法使い」と呼ぶ。

 「魔技師」の能力を魔法と呼ぶのには語弊があるような気もするのだが、「機構」にしてみれば、両者が研究対象であることに変わりはない。

 ちなみに、このメンバーを分類してみるならば、可憐と蒼維が「魔持師」、大輔、響古、希が「魔技師」である。

「可憐ちゃんのことは、「アスタリスク」でも結構有名でね。ちょっと調子に乗ってるって話だから……かつての戦友である僕が、灸をすえてあげようかと思って」

 刹那、響古ががたんと椅子を蹴って立ち上がると、再び、彼のむなぐらを掴んで……叫んだ。

 とても悲痛な表情を、言葉と一緒に蒼維へぶつける。

「勝手なこと言ってるんじゃないわよ! あんたねぇ、可憐がどんな思いで――」

「響古、いいよ。言わせておけばいい」

 慣れている、全身でそう語る可憐に、響古は憤慨しながらも、渋々その手を離した。

 蒼維は乱れた呼吸と首元を整えながら、

「随分手が早くなったんだね、響古ちゃんってば大胆」

「あたしはただ、可憐を侮辱する奴が許せないだけよ」

 椅子に座って腕を組み、ぼそりと呟く。

 そんな彼女の様子を……蒼維はなぜか、とても嬉しそうな表情で見つめていた。

 ……と、二人の激しいやりとりを傍観していた希が、ここぞとばかりに口を開く。

「ねぇ、蒼ちゃん……貴方、「アスタリスク」から抜け出したって話だけど……大丈夫なの?」

「何言ってるんだよ希、タダですむわけがないだろう?」

「違うのよ可憐、私や響ちゃんが言いたいのは、そういうことじゃなくってね」

 可憐を優しく諌める希は、苦笑の蒼維へ確認するように問いただした。

「蒼ちゃん、貴方はまだ、この世界で生きていける体じゃないはずよね?」

 蒼維は肩をびくりと震わせ、目を伏せる。

 明らかな図星。横からその反応を確認した響古が、「やっぱり……」と、呆れ顔でため息をついた。

「希、どういうこと?」

「可憐、蒼ちゃんが貴女と同じだってこと、知ってる?」

「ボクと……同じ? 「魔技師」ってこと?」

「そうね、それもあるけど……それだけじゃないこと、知らなかった?」

 何も知らないのだろう。可憐は目を丸くして、目の前にいる蒼維を見つめる。

 蒼維は嘆息すると、不意に、可憐の被っている帽子を指差して、

「僕は第三世代なんだ。こう言えば分かる?」

「――え?」

「可憐ちゃんがネコであるように、僕の中にも別の動物の遺伝子が混じってる。可憐ちゃんは第二世代だよね? 僕はそれより一つ進んた第三世代。可憐ちゃんの猫耳は可愛いと思うけど、僕にイヌ耳があっても見苦しいだけだろう? そういう点では感謝してるかな」

 びくり、と、心臓が跳ね上がる。

 帽子の下に隠された「耳」が、疼いた。

「響ちゃんは、蒼ちゃんが施設の環境下から離れてしまうことで体調を崩しちゃうんじゃないかってことを心配しているのよね?」

 希の言葉に、響古が少し顔を赤くしながらそっぽを向く。

 大輔は既に知っていたのか、横でうつむく可憐の様子を、少し心配そうな眼差しで見つめていた。

 何も知らなかったのは、可憐だけ。

「……そうだったんだ。だから7年間、外に出てこられなかったんだね」

 彼女がぽつりと呟き、おもむろに、被っていた帽子を脱いだ。

 帽子で隠していたのは二つの耳。本来人間の耳があるべき場所ではなく、側頭部左右対称に、少し大きめな猫の耳が、可憐の一部として存在していた。

 それを隠すための帽子は必須アイテム。現代流行が味方して、今では「そういう帽子なんだろう」という目で人々も受け流してくれるが……その下に本物があるなどと、そんな御伽噺、誰が想像しているだろうか。

「可愛いネコ耳は健在、か」

 蒼維が目を細め、目の前にある現実を見つめる。

 それは、人と動物の遺伝子を魔法を触媒にした融合実験。成功すれば人間の潜在能力を極限まで引き出すことが出来るが、その成功確率はあまりにも低すぎて危険だから……一旦中止された、「機構」内プロジェクトの一つだった。

 可憐は、中止される前に被験者になった「第二世代」の成功例、ちなみに「第一世代」の生き残りはいない。「第二世代」でさえ、その成功率はゼロに近かったのだ。仮に成功したとしても、可憐のように体の一部が不完全であったり、動物の遺伝子に人間の遺伝子が負けて、体は人間だが中身は動物、という、社会では生きていけない人間を生み出す結果になってしまったり。

 実験の被験者唯一生き残り、と言ってしまえば聞こえはいいけれども、不完全な形で生き残った、完全な人間でも完全な魔法使いでもない、中途半端なモルモット。

 猫の遺伝子と人の遺伝子がぶつかり合い、それが次にどんな化学反応を起こすのか……これだけ技術が発達した今でも、誰も予測できない。

 廃棄処分するには惜しい、だけど、手放しで生かすわけにはいかない。

 今はそれなりの役割を与えているが、勿論、可憐が離反しないように繋ぎとめるため。

 そして、定期的な健康診断だと称して今でもデータを採取、それを色々な実験に役立てているのは、本人も知っている。協力しなければ体を維持することも危ういのだから、無言で自分を提供するしかないのだ。

 だが、最近……凍結したはずのそのプロジェクトが再開されたらしい、という噂話は聞いていた。非常にリスクの少ない、活気的な方法が開発されて、現在臨床実験の最中らしい、と。

「開発された方法が、ボクと違って成長過程の人間を必要とした。その影響で7年間自由がなかった、キミが今まで姿を見せられなかったのは、そういうこと?」

 7年前、この4人が巻き起こした騒動は、彼らの身柄を「機構」が拘束するに十分すぎるほどの衝撃を与えた。

 今でこそ、可憐は認定された「魔持師」、大輔と響古はそれぞれに学校へ通うことが許されているが……それも、数年前までは互いに別々の場所で、研究という名の人体実験に協力させられていたのである。

 このメンバーで、あの時のメンバーで集まれるようになったのは、つい最近のこと。それぞれがどんな環境下で数年間を過ごしてきたのかを知ることが出来たのも、再会してからだ。

 あと一人、残された蒼維が早く解放されることを、可憐自身心待ちにしていたのに。

 ようやく出会えた仲間も、時間が経てば敵になってしまう。そんな世の中、そんな現実。

「まぁ、ぶっちゃけちゃうとそういうことだね。ちなみに僕の中には「イヌ」の遺伝子が融合されちゃってて、今でも結構、薬のお世話にはなってるし」

 軽く言い放って肩をすくめる蒼維を、響古が横目で睨みつける。

 その心中には、どんな思いがあるのか。そう、彼女は決して口に出さないが、本当は、ずっと……。

「響ちゃんには、晴さんから連絡が入ってたの?」

「あ、はい。兄さんが、蒼維が脱走したから食料を恵んでやれって……捕まえて「アスタリスク」に戻せっていうのが妥当なのに……そんなこと、一言も言わないんだからあのバカ兄!!」

 数十分前の兄との会話を思い出し……握り締めた拳に血管を浮かせる響古。

 そんな彼女を、希が相変わらずの笑顔で「まぁまぁ」となだめ、

「とにかく、蒼ちゃんに関しては、晴さんに任せることになるでしょうね。さっき、一階へ下りたときに連絡をお願いしておいたから、そのうち迎えに来てくれるはずよ」

「……そのうちが一体いつになることやら。日が暮れたら帰りますからねっ」

 すっかり憤慨した響古が、約束を守るというルールを守ろうとしない兄に毒づく。

 そんな様子を眺めていた可憐は、響古を笑顔で見守る蒼維に、先ほどとは違う何かを感じずにはいられなかった。

「ねぇ蒼維、逃げ出したのはキミだけ? 他に仲間はいる?」

「知りたい?」

「どうせ、聞いたって教えてくれないだろう?」

 可憐の言葉に、蒼維は首を縦に振る。

「勿論。それくらい自分たちで調べてもらわないとね」

「……ふーん」

 意味深に頷いた可憐は、帽子を被り直して立ち上がった。

「ねぇ希。ボクはもういい? とりあえず、何か分かったら連絡くれるってことで」

「そうね、別に構わないけど……可憐、帰るの?」

「うん。何だか疲れちゃった。大輔はまだ残ってる?」

 首をかしげて尋ねると、彼女の相棒もまた、ため息混じりに立ち上がり、

「お前を一人で放り出すわけにはいかないだろう?」

 危険物扱いされた可憐は、不機嫌に頬を膨らませた。

「人を猛獣みたいに言うな」

「その通りだろうが」


「――あ、大ちゃん」

 帰り際、準備を整えて会議室から出ようとする二人……というより大輔へ、椅子から立ち上がった希が声をかける。

 何事かと思い振り返る二人。

 彼女の言葉を待つ弟へ……希は、相変わらずの笑顔で、こう、言った。

「私のことは気にしないで。可憐のこと……お願いね」

 その言葉を聞いた大輔が、真意を理解したのか……軽く、目を見開く。

 しかし、可憐には意味不明の言葉。腑に落ちない表情で、両者を見比べては疑問符。

「希? 何言ってるの?」

「可憐、帰ったらニュースを確認しておくのよ」

「え? あ……うん、分かった」

 恐らく、最初に訪れたときの会話――今週の天気に関しての注意だろう、可憐はそう思うことにした。

 ただ、それでも、納得できない部分が目立つ発言ではあるのだが。

 疑問符を浮かべたままの可憐を促すように、部屋の外へ出て行く大輔。

 複雑そうな表情を、拭いきれないまま。


 二人が完全にいなくなったことを、気配がこの階のフロアからなくなったことを確認した蒼維は……はぁ、と、コレまでにないほど深いため息をつく。

 勿論、向けられるのは響古の厳しい視線。

「何を深々とため息なんかついてるのよ。アンタ、自分の立場分かってる?」

「分かってますって。そりゃあ、響古ちゃんは見慣れてるかもしれないけどさぁ……僕は初対面だったんだよ、「成長してない可憐ちゃん」とは」

「あ……」

 彼の言いたいことを悟った響古が、言葉をのみこんで視線をそらす。

「そ、そっか……あたし、可憐はあれが当たり前だって思ってたけど……そうよね」

「平生を装って接するのも、案外大変だったんだぜ? 話には聞いてたけど、露骨に驚くわけにもいかないし」

「話に聞いてた? 誰に?」

「晴さんに決まってるだろ。可憐ちゃんは第二世代だから、そのときの資料を見せてもらったこともあるんだ」

 蒼維の言葉に、「あ、そう」と気のない返事を返す響古。何か釈然としないような横顔だが、その表情も、すぐに崩されることになる。

「ってことは……僕は処遇が決まるまで、響古ちゃんの家にお泊りってこと?」

「お泊り言うな、気持ち悪い」

「響古ちゃん……僕、初めてだから優しくしてね?」

「今すぐ「アスタリスク」に強制送還してやるっ!!」


 その後――響古の兄である晴が、二人を迎えに来るまで。

 二人は、痴話喧嘩だか夫婦漫才だか分からないような会話を、希を無視して延々と繰り返したのである。

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