第563話 窮鼠猫を嚙みたい所存

 ゼノ工房での刻印生活からようやく解放されクランハウスで朝の時間を過ごせるようになった努は、実に人間らしい暮らしを送っていた。ガルムのモーニングノックで起こされ、朝日と共に軽食を食べてから迷宮都市の外周を走り汗を流す日々。



「これはまた、鍛え直しだな」

「短所より長所を伸ばすタイプです」

「確かにツトムの言う通り、他の白魔導士に倣って無理に近接戦をこなす必要はない。ただ体力に関しては努力で誰でも補えるところだし、探索者に限らない基礎だぞ」

「嫌だー僕は刻印でこれからも食っていくんだー」



 しかしそもそも日常の大半はインドアであった努からすれば、成功確率の低い刻印にチャレンジし脳汁を垂れ流しながら長時間作業をする方が性には合っていた。それに秋山君との登山で鍛えたせっかくの足腰もフライでの探索と刻印生活で鈍っていたのか、思ったよりバテるのが早かった。



「次回のスタンピードからはツトムも、最前線の探索者としてダンジョンの間引き義務が発生するからな。その時のために体力をつけておかないと厳しい」

「流行りの魔貨で何とかならないかね。Gでは無理だけど魔貨での納税なら間引きの義務免除とか」

「ないものはない。そろそろ息も整っただろう。ダッシュ十本、始めるぞ」

「うげー」



 迷宮都市外でのフライは特定の航路以外では基本的に禁止のため、神のダンジョンと比べて徒歩での移動が多くなる。そのため探索者としてはフライでの立ち回りが多い努は今の内の体力作りが急務のため、足腰を鍛えるトレーニングを一通りこなす羽目になっていた。


 そんなトレーニング中の努から少し離れた頭上には、丸い繭が月のように付かず離れずといった具合で存在している。光魔石の献上でなければ契約時間が条件だとリーレイアから言われ、努は暇さえあればアスモと契約もさせられていた。



「リーレイア、ノームを頼む」

「今日も変化なしですか。契約――ノーム」



 平日の朝は欠かさずガルムの朝練に参加しているリーレイアは、残念そうに呟くとダッシュ十本を終えて両膝に手をついている努の精霊契約を切り替えた。今日は墓から這い出てくるグールのような演出で出てきたノームは、幼女のような見た目に姿形を整えると努の隣に位置取った。


 頑丈さを表すタンクの指標でもあるステータスのVITは体力の消耗を防ぐ効果も付随されているので、体力トレーニングにおいてノームは有用だ。特に体力が尽きかけのところで契約することで最後の追い込みがより長く続けられるので、体力トレーニングにおいては重宝されていた。



「よくやり切った」

「死ぬ……」



 そしてガルムと共に最後の一本をやり終えた努はクールダウンに入り、隣を歩くノームに手を繋がれても振り払う元気もないまま歩き続ける。遊園地に来た子供のようにはしゃいでいる彼女とは対照的に項垂れている努は、連れられるまま迷宮都市の門付近へと向かう。



「グッドモーニング」

(とんでもない挨拶だな)



 努よりも早く基礎トレーニングを済ませていたダリルとコリナは、朝からダンジョン外での実戦を想定した模擬戦を行っていた。メイスとタワーシールドのかち合う強烈な打撃音が鐘のように響き、それを見学している者も数十人は見える。



「あ、ありがとう、ございましたっ」

「お疲れ様ですぅ」



 ダリルが無限の輪に戻ってから一ヶ月ほどは経ったが、模擬戦は神のダンジョン内外関わらずコリナが勝ち続けている。彼もガルムとの特訓も経てそろそろ数年前の腕や勘は取り戻してきた頃だが、実力派のリーレイアなどと3年間模擬戦を続けてきたコリナにはまだまだ敵う気配がない。



「意外と重傷でもないね。ヒール」

「あっ。ありがとうございます」

「……あれっ。あの、私は……?」



 開口一番グッドモーニングを受けて吐血していたダリルに、模擬戦を見学していた努は彼が鎧を脱ぐのを手伝う。そして適当なヒールでの回復が難しい外傷がないか目視と触診をしてから治療した後、目もくれないで立ち去ろうとした努にコリナはか細い声を掛けた。



「怪我してるの? それ」

「いや、スーパーアーマーが地味に厄介でしてっ。普段なら振り抜けるところでも不意に止まるので、たまにくじいたりするんですよぉ」

「でもやっぱり一度バレちゃうと対人戦ではあんまり役に立ちませんね。スーパーアーマーって口にしたら、そうなる前提で殴られるので。一応フェイント出来なくもないですけど」

「むしろ衝撃を防いだ部位で全て吸収するのをいいことに殴ってた印象だったね。でもスーパーアーマーのフェイントは面白いかもね。言ってすぐ解除する感じ?」

「ですね。壊せない壁を殴る前提での攻撃なら耐えやすいですし、ちょっとした駆け引きにはなります」

「……治癒の願い。祈りの言葉」



 そのまま構わず話を続けそうな努とダリルに、コリナはしくしくといった顔で自分に回復スキルをかけている。そこに二人と同様に模擬戦をしていたガルムとリーレイアも帰ってきた。



「治していただけますか?」

「ハイヒール、ヒール」



 左足のどす黒い打撲痕が痛々しいけんけん足のリーレイアと、目立った外傷こそないが右半身を庇うように歩いてきたガルムも努は治療する。



「この後、模擬戦は如何ですか?」

「勘弁してくれよ……」



 ガルムとの模擬戦を済ませたもののその結果に納得がいっていなさそうなリーレイアにそう返した努は、手をにぎにぎしてくるノームとの契約を解除させて一息ついた。



「やるなら明日から頼むよ」

「はい? 一体どういう風の吹き回しですか?」



 帰ってきてからは一度も模擬戦を受けた試しがない努の急に乗り気な言葉に、リーレイアはびっくりした顔で聞き返す。



「アンチテーゼ運用で割といい感じに戦えそうなのがわかったからね。リーレイアが僕に度を過ぎない攻撃をしないと約束するなら、やってあげてもいいよ」



 努が模擬戦を避ける理由としては自分が痛い目に遭いたくないということが第一だが、他人に大怪我を合わせるようなスキルを放ちたくないという気持ちも大きかった。


 それこそ自分が殺されるかといった場面にまで追い込まれなければ、実弾の入った銃口を人に向けるなんてことは出来ない。モイとの戦闘を終えてからその気持ちはより強くなったので、努は模擬戦を拒み続けてきた。


 だがそれと同時にこの世界で生きるのなら対人戦を避け続けるのは得策ではないことも理解はしていた。探索者の持つヒールで治せる怪我なんて大したものじゃないという価値観がいくらおかしいと糾弾したところで、物理的に押し付けられてしまえばそれを避ける術はない。


 自身の発言を通すためには最低限の自衛能力が必須だ。ただその自衛能力の行使で誰かに傷を付けることは、たとえ見知らぬ餓鬼だろうが二度としたくないのも本音だ。だがいくら先延ばしにしようといつかはまたこの世界の現実に突き当たる。


 そんな気持ちが内在する中、130レベルになって覚えた回復スキルの効果が反転するアンチテーゼ。ウルフォディア戦において活用したそれを練習していた際、努は赤いヒールを受けたモンスターの様子を見てある仮定が浮かび上がった。それはアンチテーゼでの攻撃には痛みが存在しないことだ。


 何せモンスターたちはアンチテーゼ下での回復スキルを受けても一切怯まず、多少当てた程度ではダメージを受けた様子もなく突っ込んでくる。ただそれがモンスターの体力の半数以上を奪うと毒でも効いてきたかのように動きが鈍くなり、最後には気を失い粒子と化す。


 そして実際に休日に行った浜辺階層のセーフポイントでガルム相手にアンチテーゼの効き具合を実験してみたところ、赤いヒールに当たっても痛みはほぼなかったようだった。それを聞いて努も自身の身体で試してみたが、確かに強烈な日差しで日焼けでもしているようなじりじりとした感覚がある程度だった。


 それをしばらく続けるとちょっとした倦怠感が出てきて、最後には立つのも厳しいほどの状態に推移していく。それは精神力の減り具合における負荷に近しいものこそあるが、努からすれば朝からの海水浴で夕方ぐったりするような感覚のようだった。


 確かにダルさこそあるが、今日はぐっすり眠れそうだなと思えるくらいの疲労感。それで気を失った後にも尚ヒールを続ければ衰弱死まで行くのかもしれないが、そこまですることはない。そして模擬戦の相手に苦痛が伴わないことは努からすれば大きなメリットだった。



「神のダンジョン内の方が安心ですか?」

「どうだろう。最悪の事故を考えると神のダンジョン内がいいんだろうけど、加減なくやってきそうだから怖いんだよな」

「……何やら勘違いしているようですが、私もいくらツトムとはいえ人が本気で嫌がるような真似はしませんよ。あの姫にもたぶらかされずアスモの件にも協力してくれていますし、それ相応の義理は果たします」

「さっきの誘い方からして、信用はないけどね」

「あ、こちらも怪しいのでお願いします」



 ガルムに負けた憂さ晴らしをする気満々の提案をしてきた彼女は、話題を逸らすように左腕の治療も頼んだ。骨が壊れていないか確認した努はその箇所に手の平を向ける。



「ヒール」

「しかし、何故明日からなのですか?」

「アンチテーゼ、初見殺しの側面が強いからね。それがバレる前に一度倒しておきたい奴がいるから」

「……あぁ、ユニスですか? 朝刊で見ましたが、あれはあれでいいものですね」

「いや、違うけど」



 新聞記事に映っていたシルバービーストの猫人に激詰めされて半泣きになっていたユニスには、そういった趣向がなくとも何処か嗜虐心が湧き上がるものがあった。そんな性癖を暴露した彼女に努は軽く引きながら、この場にいない猫人を指差す。



「エイミーには何年も前から世話になってるからね。少しは鬱憤を晴らしておかないと」



 現実に帰る前での不慣れな模擬戦では鼠でもいたぶるように散々転がされ、オルファンとの仮想練習でも弄ばれた彼女には一度くらい土を付けておきたい。


 個人的な恨み満々で初見殺しを目論む努にうんうんと頷いているガルムを前に、リーレイアはどの口が言っていたのかと呆れた顔を隠さなかった。

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