第416話 ハンナ、努アンチになる
「ふぅ」
周回遅れの孤児たちとそれに付き添うコリナを横目に朝の走り込みを終えたリーレイアは、少し乱れている息を整えながら汗で濡れた前髪を左右に払った。そしてシルバービーストで雑用をこなしている孤児の一人から貰ったタオルで緑髪を拭い、事前に準備されていた水筒を一つ手に取る。
(……今日は無駄な力が入っていたような気がしますね)
基本的にガルムと同じ身体トレーニングを毎日行っている分、その変化には気づきやすい。その原因は何なのかぼうっとした頭で考えながら水を飲んでいると、先ほど走っている時にコリナから聞いた話が思い浮かんだ。
(ダリルには思わぬうちに期待しすぎていたのでしょうか? まさかここまで腹が立つとは)
リーレイアはクラン内での立ち位置でいえば、王都で教育を受けていたコリナやゼノと並んでしっかりとしたイメージが強い。だが年齢でいえばダリルやアーミラと同様、最年少組でもある。だからこそ二人に対する評価に関しては他の者たちと少し違っていた。
感情的になって無限の輪を抜けたアーミラについては元々可愛さ余って憎さ百倍だったので、今更それがぶり返すことはなかった。むしろそんな彼女すらも可愛いなとすら思えるのだが、ダリルに関しては失望の念を禁じ得なかった。
無限の輪を抜けるという選択をダリルがしたことについてとやかく言うつもりはない。自分だってもし努からの手紙がなければ、素直にアーミラを追いかける選択肢を取った可能性もある。
だが今更コリナに接触して擦り寄ってきたことについては、結局のところその程度の浅い覚悟で無限の輪を抜けたのかと失望すらした。ならば今も彼が奮闘している孤児のコミュニティとやらもその程度のものなのだろう。ガルムに反抗したことについては評価していただけに、その落差で彼には失望してしまったのか。
(……まぁ、結局のところダリルにだけ怒っているわけではないのでしょうね。アーミラは別ですけど、エイミーとディニエルが抜けたことにもあまり納得はしていませんし)
努との別れに立ち会ったというエイミーは彼がこちらに帰還する手掛かりを探すため王都へと旅立っていったが、ガルム以外のクランメンバーには事後報告だけだった。その後に多少の気遣いは見受けられたので了承こそしたが、事前に相談くらいはしてほしかった。
それにディニエルもあの夜の一件についてはツトムが異世界に帰るために嘘をついたと結論付けられはしたが、足を撃った動機については彼の言う通りだったと推測はできる。しかし彼女は無言で無限の輪を去った。暗に裏切り者とでも言いたげな彼女の態度には苛々とさせられる。
(それもこれも、全部貴方の思い通りというわけですか。ここまで酷い人だとは流石に思いませんでしたよ)
ガルムから努についての真実を聞いた当初は、異世界などといった信じられない情報で混乱したが、あの男ならやりかねないと思いはした。それにここまでの財産を残して去ったことと、アーミラ攻略の布石を置いてくれていたこともあり感謝すらした。
だがあの出来事からそろそろ半年が経過しようとしている中で、不思議なことに彼への妙な苛立ちは日に日に熟成でもされているかのように増してきていた。
そもそも自分が無限の輪に入ったのは、どうにかしてアーミラを追い落としてやるためだった。そしてクランリーダーである努には階層攻略に本腰を入れて協力する代わりに、彼女を実力で見返すチャンスを貰うこととなった。
お互いにあまり性格がよろしくないということもあり、無限の輪との関係は損得勘定という言葉がぴったりだった。だからこそ努が全てをかなぐり捨てる形で異世界とやらに帰った時も別に悲しさなど微塵もなく、遺してくれたものが大きかったので多少の尻拭いはしてやるかといった気持ちすら浮かんだ。
そもそも損得勘定ありきで入っただけなのだから、たとえ無限の輪が崩壊したとしても自分にとっては些細なことだ。アーミラさえ近くにいればそれでいい。これから新たな居場所を探さなければならないことについては億劫であったが、動き始めてしまえばこの気持ちも晴れるだろう。そう思って空いている時間に新居の内見や自分好みの家具を見繕ったりした。
しかし実際に行動へ移してみてもあまりしっくりとは来なかったし、ディニエルやエイミー、ダリルが無限の輪を抜けた時は少し心がざわついた。そのざわつきは時間が経つにつれてどんどんと大きくなっている気がした。
(今頃ツトムは何食わぬ顔で元の日常に戻っているでしょうに。何故私は……あぁ、考えるだけで腹が立つ。あの三人もそれぞれ好き勝手動いて、馬鹿らしい。何故こんなに入れ込んでしまったのか……)
損得勘定にまみれた仮初めのクラン生活。初めこそそう考えて行動していたが、途中からはあまりそんなことを思うこともなくなり始めていた。
ディニエルとは遠距離攻撃を持つアタッカー同士ということもあり、たまに意見を交わしながら探索者として一緒に精進してきたつもりだ。エイミーも初めは上っ面だけの関係ではあったが、共に暮らしていく中で多少は突っ込んだ話題で盛り上がることだってあった。そんな二人と探索者として精進したからこそ、九十階層でアーミラを退かせて一軍になれた。
ダリルと会った当初はその童顔と普段は頼りなさそうな雰囲気からして、学園時代にいた後輩を思い起こさせた。だが朝の鍛錬にほぼ毎日顔を出し、ダンジョンでガルムから受けたタンク指導を素直に取り入れる人間性は見習うべきところがあった。そんな愚直ともいえる努力を継続して自分にもどうしたらいいか何かと意見をお伺いしてくる彼は、何だか人懐っこい大型犬みたいで好ましく思っていた。
そして九十階層で自分に指揮を任せて単身で成れの果てに挑んだ努の活躍は、今も脳裏に焼き付いて離れない。普段こそ人間性を疑う言動は目立つが、あの時の状況判断と立ち回りはまさに神がかっていた。
ガルムの話を聞く限り多少は事前情報などを持っていたらしいが、それでも常人であんな真似は出来ない。ガルムが気持ち悪いほど努は凄い凄いと言っている理由があの時にわかった気がした。
だがそんな努はこの世界から去ってしまい、そのせいでアーミラたちも無限の輪を抜けてしまった。彼はエイミーとガルムに必ず帰ってくると約束したというが、それがいつになるのかはわからない。あの男のことだからそれも方便の可能性だってあるだろう。
無限の輪に残った者たちは徐々に苦しくなり始めているのに、あの男だけはのうのうと元の世界で暮らしていると思うと、無性に腹が立って首を掻きむしりたくなる。あいつだけ損得勘定で生きていることが恨めしい。誰かがこの無念を晴らさなければならない。
「ど、どうかしたっすか?」
「……いえ、なにも?」
「……おーっす」
このままではまた前のクランと同じ二の舞を踏むことになると思ってしまったこともあって、リーレイアの表情は修羅になっていた。そんな時に限って水筒を取りにきてしまったハンナは、そろそろとした足取りで彼女から離れていく。
(帰ってくるにしろこないにしろ、不意打ちで一発くらい殴ってしばらく立てなくしてやりたいですね。あとはダリルとも、冷静に話した方がいいかもしれません。冷静に、冷静に……)
この調子でダリルに会ってしまえばこのどす黒い感情をありったけにぶつけかねないので、まずは何処で解消して気持ちを整理する必要があるだろう。相談する相手としてはゼノかコリナ辺りが望ましいか。
ただ彼は刻印の装備開拓で忙しなく動いているし、最近では子宝にも恵まれたようで更に忙しくなるだろう。それにピコの出産には元々看護師でもあったコリナも付き添うようで、彼女も最近は祈祷師の回復スキルを医学に応用するための勉強をしていて忙しい。
「ハンナ、少しお話ししたいことがあるのですが」
「……えっ?」
そうしてリーレイアの黒い感情の捌け口として選ばれたハンナは、その日からしばらく努アンチになるくらいには思考を汚染される羽目になった。
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