第216話 黒杖と寝た女
前線部隊はそのままセントリアへ向けて撤退していき、道中奇襲してくるモンスターを退けながら一先ずスタンピードからは逃げ切った。そして疲れ切った馬を休ませている中で、努は若干サンドワームの体液が乾いて黒髪がかぴついているアルマと通りすがった。
「早くお風呂に入りたいんだけど……」
「…………」
今までは奇襲してくるモンスターへの対処でそこまで気にならなかったが、アルマからは今でも酷い臭いが漂っていた。恐らくサンドワームの胃の中に消化し切れていないものでも入っていたのか、腐臭に似た臭いがしている。
そして通りすがりに顔を
「ちょっと、今絶対臭いって思ったでしょ?」
「……実際、臭いですよ。貴女はもう鼻が慣れたから平気なんでしょうけど、腐った肉みたいな臭いがします」
「そ、そう……かしら?」
事実、サンドワームに呑まれて救出された探索者たちの周りは空間が開いていた。そして努にそんな言葉を返されたアルマは、気まずさが今更ぶり返したのかおどおどとした後に顔を逸らした。
そんなアルマを見て努は呆れたような顔をした後、自身のポケットに収まっているウンディーネに呼びかけた。
「あれ、綺麗にしてやってよ。これじゃあ臭くて鼻がひん曲がりそうだ」
鼻を摘まんでいる努のお願いに、丸っこい形をしたスライム状のウンディーネは断固拒否するようにそっぽを向いた。その後努は水の魔石を一個、二個と増やしてウンディーネと交渉し、粘液にまみれた探索者たちの掃除を任せた。
「……貴方、白魔道士でしょ? 何でそんなに精霊から気に入られているのよ。精霊がこんな雑用を請け負うなんて、信じられないんだけど」
「
「うっ……。本当に、悪かったわよ。そのことは」
「……こちらこそ、すみません。もう済んだことですから、今のは僕が悪い」
アルマからの全面的な謝罪はもう受けている。それでも反射的に皮肉的な言葉を返してしまった努は、申し訳なさそうにしているアルマに謝った。のそのそと足下からウンディーネに這い上がられて粘液をこそぎ落とされている彼女は、少しこそばゆい顔をしながらも視線を下げた。
「……幸運者の名が広まった後、私と一度目が合ったこと、覚えているかしら?」
「…………」
「あの時私は、貴方を見ていないフリをした。もし話せば、黒杖を返せと言われる気がしてね。……本当にごめんなさい。あの時の貴方の顔は、今でも覚えているわ」
「別にいいですよ。今の僕はこうして無事ですし」
そう言う努の顔は、そこまで晴れていない。幸運者という名が広まった時の努は、この異世界で頼れる者が誰一人存在しなかった。自分の知らない者しかいない孤独な場所で、だからこそ努はアルマに目を逸らされたことをよく覚えていた。あの時努は、崖から突き落とされたような気持ちになった。
「貴方は強いわ。本当に黒杖なんて必要ないくらい、強い。でもあの時の貴方には、手を差し伸べるべきだった。黒杖をヴァイスに取り上げられた時、貴方の気持ちが少しはわかった気がしたわ。もし紅魔団のクランメンバーたちがいなかったら……私は、ここにいられなかったから」
アルマは無限の輪のクランメンバーたちと喋っている、ガルムとエイミーの方を見た。
「貴方にもその仲間はいた。でも、あの人たちがいなければわからなかった。あの時の貴方は、迷子の子供みたいだった。どうせ探索者を続けないなんて逃げずに、声をかけるべきだった。幸運者という名の発端は、私なんだから」
「……もう、いいですよ。謝罪は前に受けてるので」
「前は結局、黒杖のことで話が終わったじゃない。……今では、黒杖はちゃんと道具として見てるわよ? もう一緒に寝てなんてないからね!」
(本当に黒杖抱いて寝てたのかよ)
顔を赤らめてそう言うアルマに努が白い目をしていると、彼女は気を取り直すように身じろぎした。
「それはともかく……本当に、貴方には悪いことをしたわっぷ!? ごぼごぼ!!」
「へ? ちょ、大丈夫ですか?」
「ごぶっ!? ごぶぶぶぶぶぶ!!」
「ウンディーネ! ストップストップ! いきなり顔を洗うな!」
努が悲しそうな顔をしたことを見過ごせなかったのか、アルマの顔にウンディーネは突然飛びついた。青色の粘体が顔に被さって息が出来ないアルマはもがき、努は慌てて引き剥がしにかかる。
そうしてわちゃわちゃとしている二人を、ヴァイスは神妙な顔で眺めていた。
▽▽
馬を休ませた前線部隊は再び動き、その後はモンスターの奇襲もなくセントリアへと無事に帰還することが出来た。既にバーベンベルク家はセントリアの地の下から空の上まで障壁を張り巡らせているため、もしモンスターの襲撃が来たとしても余裕はある。なので前線部隊はようやく気が抜けたようで、各自気楽に会話を始めた。
クリスティアはバーベンベルク家に今回のスタンピードに知性を感じることを伝え、騎士にはセントリアの防壁や武器などの再調整を命じた。その後にバーベンベルク家当主と話していたレオンを呼び出した。
「レオン。この情報は絶対に王都へ届けなければ、致命的なものとなる。万が一にもそれは避けたい。すぐに王都へと帰還し、確実にこの情報を届けよ。書類はここに纏めてある」
「へいへい。お任せ下さいませ」
「すまないな。この情報を正確に王都へと届けた暁には、私から褒美をやろう」
「マジで!? やったぜ!」
王都に呼び出されてからほとんど情報の伝達に奔走しているレオンは、クリスティアの褒美という言葉を聞いて喜んだ。そのままうきうきした様子でセントリアを飛び出していったレオンをよそに、クリスティアはバーベンベルク家当主の所へ向かい防衛戦について協議していた。
そして努も先ほどのモンスターたちの挙動について、宿屋のロビーでのんびりしながら色々と推測をしていた。
「む~っとっとっと」
(モンスターの指揮を執るモンスターは、存在しないはずなんだけどな)
難しそうな顔で唸りながら屑魔石で魔流の拳の鍛錬をしているハンナの横で、努は腕を組みながら『ライブダンジョン!』の情報を掘り起こしている。だが『ライブダンジョン!』で知性がありモンスターを指揮するようなものは、存在しない。喋るモンスターならいるのだが、大抵それらは孤高なボス的な立ち位置のため指揮を執ることは考えづらい。
「あいたっ!? 師匠! 師匠、怪我したっす!」
(それに、紅魔団と無限の輪のクランメンバーが狙われてたんだよなぁ。モンスターの指揮が執れるなら、普通は司令塔のクリスティアを狙うよな? 狙われたメンバーからして、多分神のダンジョンに深く関わってる人が狙われたんだろうけど……。それに、僕を
モンスターの指揮が執れる者がスタンピードの中にいるとしても、その狙いが努にはわからなかった。雲にワイバーンを隠れさせたり、サンドワームを使った地中からの奇襲。それにサンドワームは柔らかい土の中しか進めないので、恐らく他のモンスターに掘らせていたのだろう。そこまで細かな指示が出来る知性があるにもかかわらず、モンスターを指揮する者はクリスティアを狙わずに神のダンジョンに関連する者たちを狙った。
「し~しょ~う~! 治してほしいっす! 早くしないとポーション飲むっすよ~?」
「ハンナさん。ツトムさんの邪魔をしちゃ駄目ですよぉ。私が治しますから」
(暴食龍みたいにダンジョンから生まれたとすれば、多分僕を狙うことは有り得ない。もっと強そうな人を狙うはずだ。それでもわざわざ僕を狙ったってことは、何か別の要因がある。……もしかしたら、このスタンピードが起こる前から、そのモンスターは迷宮都市に潜り込んでいたのか?)
そんな結論に至った努は、コリナに魔力の暴発で怪我した指先を治されているハンナへ振り向いた。そして努はハンナへと手を向けたので、彼女は回復してくれるのかと思いパッと顔を輝かせた。
「ホーリー」
「ぎゃー!! え!? 何で!? 師匠何であたしを攻撃したっす!?」
ホーリーは人に対してほんのり温かい程度の効果しかないのだが、ハンナは大袈裟に転がって痛そうにした。
「いや、今回のスタンピードはモンスターを指揮する人がいるみたいだからね。恐らくそれは迷宮都市に関係する人だから、ハンナがそうだと思ったんだけど、流石に違うか」
「えぇ!? いや、なんかよくわからないっすけど、師匠! あたしを疑ったっすか!?」
「いや、最近ハンナの怪我アピールがうざいからやってしまった感はあるね」
「ひ、酷いっす! こんなに頑張ってるのに!」
最近魔流の拳の練習をわざわざ自分の前でやるハンナを、努は若干煙たがってはいた。なので思わずホーリーを放ったと言う努に、ハンナはばさばさと青翼をはためかせて怒りを示した。
「あと、迷宮都市でも言ったけど魔流の拳はここで使うなよ。周りにメルチョーさんの弟子だっておだてられて使ったら、回復しないからな」
「しないっすよ!」
「コリナも、回復しなくていいからね」
「わかりました」
「コリナ!? 師匠に毒されちゃ駄目っすよ!? コリナだけは優しいままでいてほしいっす!」
「おい」
言外に優しくないと言われた努は反射的にそう返すと、ハンナは恐れ半分期待半分といった目で見返してくる。そんなハンナを努は無視すると、椅子から立ち上がった。
「ガルムたちにも話してくるよ。今回は最初からヒーラーが狙われることもありそうだから、コリナも気をつけてね」
「は、はいぃ。わかりました」
努の忠告を受けて怖そうにあわあわと口をわななかせているコリナともじもじしているハンナを置いて、努はモンスターの指揮を執る者が迷宮都市に関連した者かもしれないという推測を、一応他のクランメンバーたちにも伝えておいた。
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