第3話-2

 その晩。勇者と聖女は椅子に腰掛けた姿勢や壁に寄りかかる形で休息を取っており、私は眠気が全く来なくて聖書を読み進めていた。

カチャッと物音がしたので視線だけそちらに向けると、月明かりに薄汚れた黒いローブのすそが見えた。

(ビルギット……?)

灰に振り向くも、彼は微動びどうだにしない。完全に寝ているのを確認してそっと椅子から立ち上がる。

(抜け出しちゃお)

聖書二冊を持って足早に祭壇の間を飛び出し、ビルギットには気付かない振りをして神殿の二階、大きなベランダ──とは言っても柵は壊れているし地面とくっ付いてるので実質お庭──へ向かう。


「ふー、やっと一人になれた……」

 朽ち果てつつも綺麗なテラスのベンチに腰を下ろし、私はまた聖書を開く。

「“ああ、火鉢に燃える炎よ。その熱で眠る子を温めてください。母よりも子を温めてください”」

歌い始める頃にビルギットはベランダまでやって来た。

「“眠る子を寒さから遠ざけてください。母よりも子を温めてください”」

ガサ、とそばの茂みから音がしたのでハッとして振り返る。

(ビルギット?)

しかし、そこに現れたのは上質な服に身を包み、顔を竜の仮面で隠した紳士だった。

(誰?)

「……夜中に聖女が一人で出歩くとは感心しませんね」

紳士は腰に細身の剣をたずさえていて、私のそばへ歩み寄ると腰を曲げて右手を差し出す。

「お手を、よろしいですか?」

「……嫌です」

紳士には悪いけど後で灰に何を言われるかわからない。ムッとふくれっつらを紳士に見せると彼は手を引っ込めた。

「ご挨拶の申し出は受けるべきですが、勇者さまに後で何を言われるかたまったものではないのでお断りします」

「ならば、無理強むりじいはしません。隣へ失礼しても?」

「どうぞ」

紳士から十分距離を離してベンチの端へ座り直すと、紳士も間を空けて腰を下ろす。

(灰もこのくらい配慮出来ればいいのに……)

「私はロナルドと申します。灰の聖女さま」

「ユイアでございます。ロナルド様」

「手の甲にキス出来ないのが残念です」

(キザぁ……)

歯が浮くとはこう言うことだろうか。私は間を持たせるため口元だけ笑ってみせる。ヴェールの下まで見えてるかはわからない。

「……ユイア様は灰の勇者をどう思っておりますか?」

(は? いきなり何ですか?)

「……別にどうとも思っておりません」

「どうとも?」

(面倒くさい話題に食いつかないでよ)

「それよりロナルド様はどうしてこちらに?」

「……灰の聖女さまがお一人でお出になられたのを見かけて、もし夜陰やいんじょうじて貴女あなたを害する者がいたらと思うとたまれなくなり、こうしておそばへ」

「あら、ありがとうございます」

(灰もこのくらい紳士なら良かったのに……)

「何故お一人でお出になられたのかと。普通は聖女か勇者を供にするものですが」

他意たいはありません。一人になりたかっただけです」

「それは……あまりよろしくないのでお控えください。……もしや彼らに話せぬ悩みごとでも?」

(妙に鋭いわねこの人)

「まあ、なくはないです」

「もし良ければこのロナルドにお聞かせください」

「……この世界の方に話しても無駄でございます。お耳を汚しますし、控えておきます」

「この世界? ……ほかの世界からいらしたのですか?」

「ええ、まあ。仕方なく」

貴女あなたの意思でいらしたのではないのですか?」

「違います。召喚されまして、成り行きで聖女に」

「……灰の国はそれほど事態が逼迫ひっぱくなさっておいでで?」

「いえ、国王がお告げをいただいたのです。聖女を呼ばなければ国か勇者が滅ぶと」

「……左様でございますか」

「酷い言い方ですが、部外者の私からすればどちらがどうなろうと構わなかったのです。しかし異世界で生計を立てられる手段などなく、選択肢はありませんでした」

「そうでしたか。さぞご苦労なさって……」

(灰もその一言があればまだなぁ〜)

「……ロナルド様は紳士ですね」

「いえ、私なぞ至らぬばかりで」

貴方あなたつめあかせんじて灰のお方に飲ませてやりたいですわ」

「そ、そうですか?」

「ええ、本当に」

「……灰の勇者のことは嫌っておいでで?」

「いいえ、好き嫌いの問題ではございません」

「……とおっしゃいますと?」

「あの方は私が選択肢もなく聖女になったのにこの神殿へ至る一ヶ月の間、疲れていようが心が砕かれようが体が痛かろうがご自分の都合で引きひきずり回し遊ばせましたので、自己中心主義なのだと考えております」

ロナルドさんは何故かグッと言葉に詰まった。黒い革の手袋で指先をいじると、彼は私の顔を見た。

「では、勇者は信用に値しないと?」

「少なくとも婦人の扱いが上手いとは思いません。いつか手を上げられそうで常に寒気さむけがしております」

「……左様で」

「お耳を汚しまして申し訳ございません」

「いいえ、とんでもございません」

(ロナルドさんは優しいわ。あいつと大違い……)

「……ユイア様」

「はい」

「その……」

ロナルドさんは言いよどんで上手く言葉が出てこないようだった。首を傾げるも、彼の視線は足元へ向いている。

「……この世界でお好きな物などございますか?」

「え? ああ。……いえ、今のところ全く」

「では好きな殿方、とか」

「聖女は結婚どころか懸想けそうもしてはいけないそうです」

「あ……そうでしたね。面目めんぼくない」

「いいえお気になさらず」

「では好ましい方、とか。男女に関係なく」

「え? うーん……灰の国のユリア様や、聖女フェリチッタ様や聖女オルタンス様でしょうか。今は」

「尊い方々ばかりですね」

「ええ、恐れながら。でも皆さま本当に良くしてくださるので」

「そうですか……。それは、ようございました」

ロナルドさんは立ち上がるとまた手を差し出した。

「祭壇にお戻りになるならお供致します」

「ありがとうございます。でももう少しだけ一人になりたいので……ごめんなさい」

「……ではせめてほかの者とご一緒にいらしてください。どなたか呼びましょう」

「いえ、お気遣きづかいなく。ポッと出の聖女など注目を集めるのは最初だけでしたし、どなたも興味ないはずなので」

「いいえユイア様。それは違います」

見上げると竜の仮面の下に月のような白金の瞳が覗いていた。

「ユイア様が美しく尊いので、みな声をかけられぬのだと思います」

「まあ、お上手ですね」

「本心でございます」

「あら、ありがとうございます。でも悪目立ちしているだけだと思いますよ。最も尊い方はフェリ様だと思います。あの方は聖女の模範もはんです」

「フェリチッタ様が尊いことには賛同いたしますが、ユイア様も同様でございますよ」

(よく分からないけどベタ褒めにされてる……)

「ありがとうございます」

「……ユイア様」

ロナルドさんは私の前で膝を折る。

「失礼を承知でお願いするのですが、ヴェールをめくって貴女のお顔を拝見したいです」

「え? ええ、構いませんよ」

男の人にヴェールをめくられるのは結婚式くらいだと思っていたのでドキドキする。でもロナルドさんは紳士だし大丈夫だろう。

ヴェールをめくるとロナルドさんは白金の瞳で私を静かに見つめた。

「……やはりとてもお美しい」

「……異世界から来た話をしましたよね?」

「はい」

「この顔も体も恐らく私の物ではありません」

「えっ?」

「目覚めた時に、こんな美人ではなかったはずだとよぎったので……恐らく残っているのは目元の雰囲気だけです。どなたかの姿を借りているのか、私がこちらの世界ではこう言う解釈になるのか、よく分からないのです」

「……左様でございましたか」

「はい。だからこの人形のような見た目を愛でていただけるとしたら、私は勘違いしないように気をつけないといけないんです」

「ですが、ユイア様はもうこの世界の住人でございます。そのお姿をご自分の物とお思いになられた方が……」

一番考えたくなかったことだ。多分元の世界には帰れない。人間じゃなくなった私が帰れる場所はない。

私の元気がなくなったのを察したのか、ロナルドさんは慌てて手を振った。

「も、申し訳ございません。不躾ぶしつけなことを……」

「いいえ、薄々勘付いていたことですから」

(そうだよね、もう帰れないよね……)

「何かお詫びを……」

「大丈夫です。お気になさらず」

ユリア様のおかげで笑って誤魔化すのが上手くなった。微笑みを見せるとロナルドさんは視線を逸らす。

「何故……」

「はい?」

「……何でもございません。本当に何とお詫びしてよろしいか」

「こう見えてヤワじゃないので大丈夫です。すみません、歌の練習をしたいので、この辺りで」

「ああ、お邪魔をして申し訳ございません」

「いいえ。こちらこそお耳を汚してしまって」

ロナルドさんは名残惜しそうに去っていった。

(ビルギットはもうどこかに行っちゃったかな? まあ、明日も抜け出してベランダに来よう。気晴らしになるし)

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