第92話 後生の頼み

「これは後生の頼みだ。聞いてくれねぇか......?」

まるで赤子のように切なげな眼差しで懇願する建造。つい先程まで修羅の如く自宅を解体していた男とは到底思えない。

「鬼の目にも涙ってかぁ? 健造さんが頼みごとだなんてらしくないなぁ!」

 匠にとってそれはあまりにも唐突な一言だった。若き日の彼は修羅の如く近寄り難い性格で、他人に弱みを見せたことなど一度たりともなかった。

「俺は鬼なんかじゃねぇよ。俺は誰よりも心が弱かったから、鬼になりきっただけにすぎねぇのさ......」

 健造は言葉を紡いでいく。『男は強くあれ』先祖代々言い聞かされてきた言葉は、健造にとって呪いのように付き纏っていた。妻に先立たれた日も、息子が上京した時も、健造は内心泣きたかったに違いない。

「息子もきっと、俺が鬼のまがい物だって気付いていたにちげぇねぇ。だからこそ、鬼のまがい物を打ち取ってここを奪い取って欲しかったんだがなぁ......」

 天を仰ぐ健造の目頭は熱くなっていく。晴れ渡る空も今の彼には滲んで見えることだろう。

「あいつは馬鹿だし物だってすぐ壊す。だけど、あいつの瞳はいつだってまっすぐだった。だからこそ、あいつに俺を越えて欲しかった......」

 親というのは誰よりも子供の本質を見抜いている。故に、健造の願いはエゴという形で肥大してしまったのかもしれない。

「健造さん、もう分かった! これ以上は俺が耐えきれねぇ!」

 健造の男泣きはとうとう匠にまで伝染してしまった。今の彼らに、この晴れ渡った空を拝むことはもはや不可能かもしれない。

「それで、俺がお前に頼みたいことだが......この手紙に全てをしたためた。あとはこの手紙の内容に従って欲しい」

 健造は、おもむろに懐から手紙らしき物を取り出す。だが、それは手紙というにはあまりにも重いものであった。

「これ、息子さんに渡さなくていいんですか? 大事なものでしょう!?」

 健造が懐から取り出したのは遺言状だった。本来ならば、それは息子である義之に託すべきものに違いない。だが、匠の動揺をよそに健造は言葉を続ける。

「あいつに見限られた今、こいつを託すのは匠......お前以外に頼めねんぇだ。後生の頼み、どうか聞き入れてくれねぇだろうか......?」

 健造は懇願するように匠を見つめる。自身の置かれた状況を鑑みるに、匠は遺言状を受け取るという選択肢以外に残されていないことが明白だった。

「分かった、これは俺が受け取る。心配しないでくれ!」

 匠は健造の掌を強く握り締める。胸の熱くなる彼に相反し、健造の掌からはか細い生気が感じ取れるだけだった。

「ありがとよ......あとは......頼......ん......だ」

 それが健造の最期の一言となった。彼の掌から生気が消え失せ、全身は項垂れてしまっている。抜け殻となってしまった男の骸を力強く抱きしめ、匠は心の奥底から溢れる感情を押し殺した――。

 ――その後、匠によって健造の逝去が実妹の文恵へ伝えられる。彼の唯一の肉親たる義之は断固として帰省を拒否。身寄りを失った健造を不憫に思った源家は、義之の代行という形で葬儀を執り行うことにした。

 だが、ここで問題になったのは彼の通夜だった。医者嫌いだった彼は、持病を自覚していながら通院すらしていなかった。故に、医師の死亡診断書など存在するわけもなく、警察による現場検証および家宅捜索が執り行われた。

 ここで厄介になったのは、生前の健造が独断で自宅を解体していたこと。これは源家の親族が誰一人として承知していない事実であって、警察からは不必要に嫌疑をかけられることとなる。

 警察から健造の死に事件性なしと判断が下ったことで一件落着、その後は無事に彼の通夜と葬儀が執り行われることとなる。立つ鳥跡を濁さずというが、健造の場合はあまりにも後を濁しすぎた。遺族としても、後を濁さぬ方が望ましいのは明白だ。

 ――健造を弔う一切が落着したところで、匠は文恵を訪ねた。兄弟子に託された遺言状の存在を知らせる必要があったからだ。

「文恵さん、この度はご愁傷様でした。実はですね、生前の健造さんから遺言をあずかっておりまして......」

 匠は神妙な面持ちで文恵に遺言状を渡す。それを手渡された文恵はおもむろに見開く。自らの財産もとい家屋を処分してしまった彼が、どのような文面を認めたのか皆目見当がつかなかった。

「これは......!?」

 文面を読み上げた文恵は言葉を失う。そこに書かれていたのは、更地となった羽成家の新築計画だった。

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