第91話 最期の一仕事
その後も健造は無心に自宅の解体作業に勤しんだ。作業は昼夜を問わず、自身はほとんど飲み食いもせず。周囲は奇異の目で彼を見ていたが、当の本人はそんなことは気にも留めていない。それどころか、鬼気迫る彼の気迫に気圧されて、周囲の口出しなど到底許されないという雰囲気さえ醸成されてしまった。
誰もが健造に一切の干渉が出来ないうちに、自宅の解体はみるみる進んでいった。労働基準法など到底未整備の上、一人親方とあれば身体が無事であるうちは無尽蔵に作業が進んでいくのだから。
それに、常人であれば感じるはずの疲労や空腹という感覚器官が既に破綻してしまっている。そういう意味で、今の彼はこの地球上の誰よりも修羅に近い存在なのかもしれない。
「えいっ......やっ!」
寝食を疎かにしてきた健造の体はもはや限界を超えている。もはや大槌を振り回す気力さえ尽きてしまっている。むしろ、還暦を過ぎた壮年男性には本来酷な話なのだ。
「こん......ちく......しょう......めぇ!」
彼の目の前には大黒柱が立ちはだかる。羽成家を代々支えてきた大恩人、それが今となっては大きな障害となって彼を阻む。健造は大黒柱を親の仇のように睨む。
「でん......とうが......なんだっ......てぇんだ......!」
大黒柱を睨む健造は侮蔑の言葉を吐き捨てる。だが彼が大黒柱を睨むように、大黒柱もまた修羅となった彼を睨み返しているに違いない。その証拠に、いくら健造が大槌を打ち付けようとも大黒柱はびくともしない。それはさながら、大黒柱の無言の抵抗とも言えよう。
大黒柱に気圧されてしまったのか、健造はその場から離れる。連日に亘って大槌を振り回していた彼の足元は疲労困憊。その足並みは今にも転びそうな程ふらついている。
しばらくすると、健造は再び大黒柱の前に戻って来た。どこから持ってきたのか、彼は両手で大斧を携えている。屈強な大黒柱に、不撓不屈の精神で彼は相対する所存であるようだ。
「こ......れで! さいご......に......しよう......やっ?」
健造は足腰を下げ、大斧を左脇に構える。呼吸を整え、澄んだ瞳で大黒柱を見据える。それはさながら、居合道の熟練した侍を彷彿とさせる佇まいだ。健造は邪念を捨て、無の境地に入ろうとしている。明鏡止水、万物の声を聞き全てを理解せんとする。それは『覇道』の精神にも通じるものだ。
「......!」
精神を整え気力の昂りを察した健造は、抜刀の如く大斧を降り抜いた。するとどうだろう、それまで門番のように彼の眼前に立ちはだかっていた大黒柱は、一瞬にして上下真っ二つに分断されてしまった。無心の一撃は、たとえ何人たりとも防ぐことは出来ないのだ。
「往生際の......悪い奴め......」
最後の関門となっていた大黒柱は、もはや原型を留めていない。そこにあるのは、かつて一軒の家屋を支え続けた木片の一部である。
「うっ......」
崩れ落ちた大黒柱を見届けた健造は間もなくこと切れた。ここ数日間の解体作業に、彼の心身はとうの昔に限界を迎えていたはずなのだ。それらを押し殺していたのは、一つの家屋を解体するという職人魂によるものだった。今、健造の肉体からはその魂はすぅっと抜けていった――。
――「健造さん! 健造さん! 起きてくれ健造さん!!」
こと切れていた健造を揺さぶり起こす誰かの声。健造はその声を久しく聞いた気がした。はて、その声の主は誰なのだろうか。
「匠か? 随分遅かったじゃねぇか。俺ぁ待ちくたびれたぜぇ......」
健造を揺さぶり起こしている男の名は住友匠。健造の弟弟子に当たる立場の人物だが、ここ数年は疎遠だった。そんな彼がこの場所へ足を運んだのは、健造がとある理由で匠に連絡を取っていたからだ。
「健造さん、何があったんだ!! 一体誰がこんなことしたんだ!?」
「これは俺がやったんだ......俺のこれからの願いの為に......」
健造はこれまでの顛末を匠へ赤裸々に語り始めた。匠は戦慄して話を聞くどころではないが、健造は匠の心情など関せずに話を続ける。
「健造さん。あんたって人は......とんだ大馬鹿者だなぁ!」
心が平常でないながらも、匠はどうにか健造の話を聞き入れようとしている。だが、彼のあまりに直情的な言動に、匠はついに呆れ果ててしまった。
「俺が大馬鹿なのは百も承知だ。だが、こんな馬鹿な話を弟弟子のお前以外に聞いてもらえる気がしなくてな......」
実の息子に三下り半を受け、実妹の制止を振り切った。肉親を悉く振り払った今の健造に、頼れるものは皆無に等しい。そんな中、健造が白羽の矢を立てたのは弟弟子の匠というわけだ。
「こんな俺を馬鹿だと罵ってくれて構わない。だが、俺には......ブハッ! もう時間が残されてねぇんだ......!」
健造の会話にとうとう吐血が混じり始めた。匠は彼の身を案じるが、それでも健造は話を止める様子がない。
「これは後生の頼みだ。聞いてくれねぇか......?」
健造は自らの胸中を匠へ吐露する。これまで修羅の如く険しかった彼の目つきは、まるで赤子のように切なく懇願するものに変わっていた......。
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