第90話 男は背中で全てを語る
「行っちゃった......」
義之の旅立ちを物悲しく見守るのは小学生の秋子。そして、文恵もまた黙って彼の旅立ちを見守ることしか出来なかった。
「さて、行きましょう。何だか兄さんが心配だわ」
感傷に浸っている間もなく、兄のことを思い返して胸騒ぎが止まらない文恵。親子が断絶していると手間ばかりが目に付く。
「私も行く!」
秋子は迷うことなく文恵の後に続き、物陰にいた夏美も同行した。
――源親子が健造宅へ訪れると、何やら不穏な音が響き渡っていた。それはさながら、何かを破壊しているかのようなけたたましい騒音だった。
「一体何!? 怖いよぉっ!」
騒音を聞いた秋子が戦慄している。文恵もまた不穏な空気を肌身で感じていた。
「兄さん、どうかご無事で......!」
文恵は兄の身を案じた。もしかしたら強盗にでも襲撃されたのはないかと――。だが、源親子は思わぬ光景を目の当たりにする。
「えいやぁっ! とうーっ!!」
源親子は目を疑った。そこには、大槌を振り回して自宅を解体する健造の姿があった。健造は気が狂ったかのように大槌を振り回し、目は修羅の如く眼光鋭く血走ってしまっている。
「おじさん、何してるの!!」
秋子が腹の底から叫んだものの、その声は騒音に掻き消されて健造に一切届いていない。背後から様子を窺っていた夏美に至っては、もはや言葉を失ってしまっている。それは当然だろう、この世のどこに好き好んで自宅を解体する大工がいるだろうか?
「兄さん止めて!!!」
そんな健造へ勇猛果敢に挑んだのは実妹である文恵。大槌を振り下ろした隙を突いて、彼の背後から飛び掛かったのである。
「文恵てめぇっ! 何しやがる!!!」
突如入った横槍に健造は理性を取り戻したものの、間もなく文恵は振り払われてしまう。だが、妹としてここは引くに引けない文恵は尚も食い下がる。
「兄さん、お願いだから止めて!!」
何度実兄に振り払われようと、それでも飛び掛かる文恵。仮にも自身の生家、それを修羅の如く気の狂った兄が破壊しているのだ。文恵としても兄を止めないわけにはいかない。
「嫁に出た女はすっこんでろ!!! これは俺の問題だ!!!」
だが、修羅となった健造はそう易々と止まるはずもない。それにしても、ここまで健造を凶行に駆り立てる動機は皆目見当もつかない。
「兄さん、そんなことしていたら天国の和代さんも浮かばれませんよ!!!」
文恵にとって、凶行に走る健造を止める唯一の言葉だと信じていた。だが、そんな言葉を健造は冷たく打ち捨てる。
「和代には散々話したさ。その結果がこれだ。和代だって良しとするさ」
修羅の如き冷淡な視線から文恵は感じ取った。もう誰も、健造を止めることは出来ないと......。
「もう勝手にしてください!!」
文恵はその場を立ち去った。彼女の内心は、怒りと諦めが入り混じってどうにもならなくなってしまったのだ。兄を止めたいのに歯止めが利かず、立場的にもこれ以上の干渉は不可能。彼女はただ、悔し涙を押し殺すことで精一杯だった。
「おかあさーん!」
文恵のただならぬ雰囲気を察した秋子は彼女の後を追った。口には出さなくとも、大人の心境の変化を機微に感じ取ることに子供は優れていると言っていい。
「うぉりゃーっ! せぇーい!」
文恵らが立ち去っても尚、健造の大槌を振り回す手が止まることはない。それをただ、夏美は遠くから傍観していた。
「......」
この時、夏美は
だが、その最適解に夏美は疑義を覚えていた。感情を押し殺すことが本当に美徳なのだろうか? それはただ、不条理から逃げているだけじゃないかと。だとしたら、健造はおそらく何らかの不条理から逃げようとしている。そう確信したのだ。
「ゲホッ! ゲホッ! ......俺を阻むな、こん畜生めぇ!!」
一瞬、伯父の口元から赤い何かが吐き出されたように見受けられた。それを見た夏美は、それとなく伯父の押し殺していた何かに勘付いた。肝臓癌とまでとは分からないものの、おそらく伯父の命はそう長く持たない。それでも周囲に一切を明かさず、健造は実の家族にさえ気丈に振る舞って見せていたのだ。
「『武士は食わねど高楊枝』か、そんなもの美徳でも何でもない」
夏美は皮肉交じりにそう呟いた。この時の彼女は思っただろう、日本人の美徳なんてクソ喰らえと。夏美はただ、胸の奥底から込み上げる何かを押し殺すだけだった。
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