第43話 魅惑の1杯

「京子さん、値段をよく見て......」

 1杯3,500円というタヌキコーヒーの価格に、良行の顔は青ざめてしまう。しかし、京子はそれに反論する。

「何言ってるの! タヌキコーヒーは希少な1杯に違いないのよ!?」

 数量限定という甘い言葉に加え、タヌキの糞から採取されたという希少さに京子は扇動されてしまっている。確かに、コピ・ルアク自体もコーヒーを飲みたいという人間の執念が生み出した賜物である。そういう意味で、コーヒーには悪魔が宿っているのかもしれない。

「京子さんよく考えて! 何が悲しくてわざわざウ――コーヒーを飲まなくちゃいけないのさ!?」

 良行は京子を諭そうと躍起になる。彼にとって、動物の排泄物であったものを口にするという行為が既に禁忌なのだ。普段は仲睦まじい両親が口論になっている場面を目の当たりにして、りょうたは戦慄している。傍から見ているよりも、島長一家の席は重い空気に包まれている。しかし、姉ののりこはというと......。

「ウ――! ――コ!」

 場の重い空気に反して、のりこは軽率にその言葉を口にする。小学生にとって、その言葉は笑いを取る為の必殺技に等しい。

「......おねえちゃんは黙ってて!!」

 場の空気を察して、りょうたはのりこの軽率な言動を制す。これでは、どちらが年長なのか分からない。

「%@$! ...... %@$!」

 りょうたが言葉を制していても、のりこはその言葉を口にすることを止めない。小学生にとって、それが大変魅惑的な言葉であることは言うまでもない。

「京子さん。僕はねぇ、動物の排泄物に対して3,500円という大金をはたいてしまって良いのか? 1級ファイナンシャル・プランニング技能士としては懐疑的になってしまうよ」

 倫理観からの説得は不可能と見た良行は、経済観からの説得を試みる。蛇足だが『1級ファイナンシャル・プランニング技能士』の資格自体には大変価値があり、それはすなわち経済のプロフェッショナルであることを証明するものだ。

「FPが何? そこまで資格をどうこう言うなら税理士にでもなったらどう!?」

 説得は失敗。良行はあらぬ方向で京子の怒りを買ってしまう。

「京子さんだって元銀行員。俺の立場が分からない訳でもないだろう!?」

 その言葉に、とうとう良行も堪忍袋の緒が切れる。夫婦間の不満というのは、いつどこで噴出するか予測できない。地雷というのは、どこに潜んでいるのか分からないのだ。

 両親の口論に拍車が掛かる中、りょうたはあることを思い出した。先日観たテレビ番組『トレビアンの泉』の放送内容だ。

「蜂蜜は......ミツバチの嘔吐物」

 それがりょうたの覚えている番組の内容だった。当該番組は、このように日常生活では役に立たない豆知識やうんちくを特集するバラエティ番組である。それを聞いた島長夫妻は、驚きのあまり一瞬固まってしまった。

「え? ミツバチの――!?」

 りょうたはのりこの言葉を出鼻から遮った。どうやら、彼女に品性というものはないようだ。

『......えぇぇぇっっっ!!?』

 りょうたの披露した豆知識に、二人は目が点になっている。冷静に考えてみると、そこまで驚く内容でもないはずなのだが?

「そんな......俺達は知らぬ間に道徳を踏み外していたっていうのか?」

 いくらその事実に衝撃を受けたからと言って、感傷に浸るほどでもないだろう。第一、蜂蜜には抗菌作用がある。それは古代エジプトから証明されている事実である。

「分かった、このさい排泄物という問題は不問にしよう。だが、残る問題は金銭的に痛手ということだ。京子さんはこれをどう解釈する?」

 良行としてはあくまで主題が瓦解しただけ、自身が論破されていないという立場のようだ。その証拠に、彼の目はまだ死んでいない。

「そうなれば、あとは希少性に価値を置く!」

 京子の一言でタヌキコーヒー論争は決着。良行は白旗を上げる他になかった。

「......参りました」

 良行は頭を下げ、投了の意思を示す。その光景はさながら、対局を終えた棋士の姿に似ていた。

 かくして、島長一家は各々の希望を注文した。夫妻はタヌキコーヒー、姉弟は白玉あんみつを注文した。

「うん、独特の香りがクセになるなぁ」

 先程まで散々苦言を呈していた良行も、いざタヌキコーヒーを飲めばこの通り。彼の倫理観などどこへやら。

「味わいだって、とてもコーヒーとは思えない!」

 そして何より、京子はそのコーヒーの味わいを絶賛している。コピ・ルアクに限らず、動物の腸内発酵を利用したコーヒーはこの他にも存在している。特にゾウのそれは『ブラック・アイボリー』と呼ばれ、『ブルーマウンテン』や『コナ』を凌ぎ世界最高級豆として珍重されている。

『白玉あんみつ、美味しい!』

 そう言いながら、のりこ達は白玉あんみつを頬張っていた。ワッフルの甘さに、抹茶ソフトの程よい苦みが味わいにメリハリを生む。それを理解している二人に、両親は内心脱帽していた。

「お会計は8,000円になります」

 甘味処で思わぬ出費、良行の懐は深くえぐられる。希少性の代償は高くついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る