28.黄金を巡る攻防(1)
たどり着いた王立庭園は、それはひどい有様だった。
美しく整えられていたはずの薔薇はめちゃくちゃに荒らされ、後から後から現われる群衆に踏みにじられる。
散った花弁の上に、時々松明から零れた火の粉が落ち、さらにそこに、誰かが飛ばした泥や血しぶきが覆い被さった。
夜闇の中、あちこちで怒号が響き渡り、放たれた炎がぽつりと周囲を照らしては、すぐに掻き消されてゆく。
群衆は膨らんだり縮んだりを繰り返しながら、じりじりと王城へと近付いていた。
今彼らの先頭は、薔薇園を越え、その先にある図書館のあたり。
さらに門を一つくぐれば、王のいる城へとたどり着いてしまう。
荒らされた薔薇園の手前で馬を止めたラウルは、前に座らせたアリアに再度言い聞かせた。
「ここから先へは連れて行けない。君はここで降りなさい」
「何度も言ってる。好きに降ろすといいわ。そうしたらあたしも、好きに歩く」
それに対するアリアの返答も毎回同じだ。
彼女はなんとしても、ヨーナスのいる図書館まで行くと言って聞かなかった。
胸には金貨を下げたままにしていた。
家令から報せがもたらされた後、真っ先に冷静さを取り戻したのはラウルだった。
「民の持つすべての『憤怒』を回収できないとしても、ひとまず暴動は収めねばならない」
そう告げた彼は、アリアに、金貨のネックレスを外し、このまま屋敷に留まっているよう命じた。
自分は聖騎士として、王族の危機に対応しにいくからと。
しかし、彼につられる形で我に返ったアリアは、「あたしも行く」と言って退かなかった。
ネックレスを外すことにも反発した。
金貨は手放したくない。
なぜなら、これまでの「大罪憑き」を見るに、宝石と引き離されると、多くは意識を失ってしまうから。
この逼迫した状況の最中、信頼できる相手もいないのに昏倒してしまってはかえって危険だ。
どうせ自分ひとりが金貨を手放したところで、民に広まった「憤怒」が宥められるわけではないのだから、無意味だと。
ラウルはあからさまに険しい顔になったが、主張に筋は通っていると判断したらしく、金貨の件については了承してくれた。
一方で、アリアの図書館行きについては頑なに反対した。
戦闘行為の行われている場所に女性を連れていくなど、聖騎士としても、一人の男としても、到底許しがたかったからだ。
だがアリアもまた譲らなかった。
現時点で、ラウルは自分の夫でもなければ、婚約者でも恋人でも家族でもない。
いったいなんの権利があって、自分の行動を制限するのかと。
置いて行くぶんには構わないが、そうしたら自分は勝手に屋敷を抜け出し、図書館に向かうまでだと。
啖呵を切る自分を、冷静なもう一人の自分が見下ろしている気がした。
素人の女が戦闘地帯に向かおうなんて、いったいなにをしているのかと。
客観的に見て、今のアリアは強情で、しかも足手まといだ。
だがわかっていてなお、アリアはヨーナスのもとに駆けつけずにはいられなかった。
利口であること、正しくあること。それらを選んだ結果、大切な人をまた失ってしまったのなら、生きている意味などない。
主張している間、ラウルは無言でアリアを見つめていた。
静かなのに、こちらの心臓が飛び出てしまいそうなくらい、大層な迫力だった。
だがそれでも、アリアが懸命に睨みつけていると、やがて彼は溜め息をついた。
「誰かを行かせてしまう」というのが、アリアにとって最も受け入れがたい心の傷だと、理解しているからだろう。
目の届かぬ場所で無茶を働かれるよりは、腕の中で見張っていたほうがまし。
それがラウルの結論だったようで、アリアは彼の馬に乗って、この場までやって来たのである。
暴動ならば、三年前にも経験している。
下町の喧嘩だって慣れっこなので、大したことはないと踏んでいたが――大群がひしめき、火の手まで上がっているこの場は、まさに「戦地」といった感じだ。
さしものアリアも固唾を飲み、忙しなく視線を巡らせた。
『おい、あそこ……あの図書館の入り口に、ヨーナスがいるぞ!』
と、肩に乗っていたバルトが、養父の姿を捉える。
『完全に暴徒に囲まれてるな。一緒に……誰だ? 修道服みたいなのを着たやつもいる』
「司書だな。特権階級ゆえに、攻撃すべき対象として、ともに追い詰められているようだ。あそこが、暴徒の前線だな」
ラウルも同じタイミングでヨーナスを見つけたようだ。
「馬で駆けつける。君がいては危険だ。降りなさい」
「絶対いや」
冷静沈着な聖騎士は、短く呼びかけたが、アリアもまた端的にそれを拒否した。
「アリア・フォン・エルスター」
「あたしからすれば、選択肢は『ヨーナス様のもとにたどり着く』しかないのよ。今あんたに従いながら行くか、後からめちゃくちゃあんたの足を引っ張りながら追いかけるか、それだけの違い。選ばせてあげる。どっちがいい?」
ラウルは再度、溜め息を吐いた。
「しっかり捕まっていなさい」
アリアは思わず笑みをこぼした。
なんて理解のある男だ。
「はっ!」
ラウルはぐいとアリアの腰を抱くと、もう片方の手で強く手綱を鳴らした。
馬はただちに主人の意を汲んで疾走を始め、まるで精霊のように宙を駆る。
宵闇を切り裂くような軌跡に、暴徒たちは振り向くやぎょっとして道を空け、ラウルたちは難なくヨーナスの前へと躍り出た。
「ご無事か」
「ラウルくん! ――と、アリアちゃん!?」
嘶きと同時に馬から飛び降りたラウルに、ヨーナスは天の助けとばかりに声を上げる。
だが、ラウルに続いて馬を下り、ヒールを履き直しているアリアに気付くと――馬の腹を刺さないよう脱いでいたのだ――ぎょっと目を剥いた。
「なな、なんで君が一緒に来るんだ! 危ないじゃないか! すぐ屋敷に帰りなさい!」
「こっちのセリフよ! ヨーナス様ったら、ほんとすぐ暴漢に絡まれやがって……物語のヒロインですかっての! あたしが蹴散らしてやるから、ヨーナス様は下がってて!」
「ああもう! 信じられない! ラウルくん、なんで連れてきちゃうの!?」
馬から下りるや、ざっと片足を退いて構えを取ったアリアに、ヨーナスが頭を抱える。
心配性の養父を置いて、アリアは目の前の暴徒たちを睨みつけた。
「あんたたち」
すぐ傍まで迫っている男たちは、十人弱。
皆、体のどこかに金の宝飾品を身につけ、手には棍棒やナイフ、そして小ぶりな樽を持っている。
おそらくそれが、撒いて回っているという油なのだろう。
少し離れた場所では、松明を持った大量の男たちが、衛兵と応戦している。
油を撒く先遣隊と、火を持って行進する本隊というわけだ。
本隊の持つ火が、先遣隊の撒いた油に落とされてしまえば、たちまち火の海。
これはとにかく、暴徒に放火させないための戦いであると言える。
「この人を狙うのはお門違いよ。彼は、一見貴族のようだけど、中身を四捨五入したら平民なの。それもうだつの上がらない、安月給の部類の平民よ。狙うならよそを当たって」
「ひどいよアリアちゃん!」
凜と声を張ったアリアの背後で、ヨーナスがさめざめと抗議する。
「でも事実だもの」
「どうだかなあ」
アリアはしれっと肩を竦めたが、暴徒は主張を受け入れてはくれなかったようだ。
代表と思しき、体格のいい男が、唇を歪めて笑った。
「そこにいるおやじどもは二人とも、いい服着てんじゃねえか。ぶくぶくと肥え太ってよお」
「色男の騎士様も、
「てめえらの残飯だけで、俺たちは余裕で三日腹を膨らませられるって、考えたこともねえだろうなあ!」
勢いづいたのか、ほかの男たちも次々と同調しだす。
普段なら男たちをたじろがせるラウルの美貌も、憤怒に駆られた相手には効かないようだ。
ラウルが剣の柄に手を掛けると、男たちは一層興奮の度合いを強めた。
「ほら、都合の悪いことを言われたら、すぐ切り捨てだ! 俺たちのことなんざ、虫けら同然と思ってやがる!」
「その調子で、マルクのことも処刑したんだろうが、ええ!? 可哀想に、火炙りなんかにしやがってよお!」
「あいつは、ちょっとふざけて、お偉方の悪口を言っただけだろうが!」
どうやらマルクというのが、この騒動のきっかけとなった人物のようだ。
(苛烈な処刑なんてなかった、そんなの妄言だって、説得できたらいいんだろうけど……)
アリアは慎重に男たちの表情を窺いながら、すぐに「無理だ」と考えを棄却した。
男たちの瞳は、異様にぎらぎらと光っている。
ほとんど理性を失っている状態だ。
マルクの件はあくまできっかけに過ぎず、それについてだけ誤解を解いたところで、彼らの「憤怒」は収まらないのだろう。
「ぶっ殺してやる! 俺ァ、手違いで捕まっちまったやつを釈放してくれって、高い金まで払って代書屋に嘆願書を書いてもらったんだ。だが、勤勉と噂の子爵でさえ、目を通しもしねえ。この国の貴族にはうんざりだ!」
「俺もだ! 貴族の屋敷に奉公に出た妹は、可哀想に、平民だからって人とも扱われずにこき使われて、泣きながら帰ってきたよ。謙虚なるマイスナーが聞いて呆れる」
「針子をやってる俺んとこの娘だって、平民風情が自分より立派なレースを持ってるってやっかまれて、クレーベ家の娘に追い出された。嫁入り直前の娘がだぞ。なあ!」
どうやらドミニクの講じた策は、着実に民の怒りを引き出していたようだ。
一時的に怠惰になったヒルトマン子爵や、傲慢になったマイスナー伯爵、嫉妬深くなったクレーベ子爵令嬢の振る舞いが、しっかりと「貴族の悪行」として印象づけられている。
「最近の話ばかりじゃねえ。三年前の暴動のときから、俺たちゃこの国に振り回されたんだ」
「てめえらの都合で、好き勝手どんぱちやってよお。割を食うのは、いつも俺たち平民だ」
「あの冬、何人ダチが死んだと思う」
怒りは増幅する。
周囲と共鳴し、過去まで遡って何度も反芻されながら。
男たちはふいに、ぎらりと瞳の色を深める。
「思い知らせてやる!」
相手は騎士だとか、小柄な女だとか――そうした一切の配慮もなく、彼らは大きく、武器を振り回しはじめた。
「下がっていなさい」
素早くラウルが剣で攻撃を薙ぎ払う。
だが、素直に「はいぃ!」と彼の背後に隠れたのはヨーナスと、もう一人の司書だけで、肝心のアリアはといえば、さっとその場に屈み込み、男たちに足払いを掛けていた。
「ほらほら、足下ががら空きよ、この雑魚ども!」
「うわあ!」
尻餅をついた男から、さっと短刀を奪い取る。
棍棒のほうは片足だけ伸ばし、遠くに蹴り飛ばした。
ラウルが柄で男のこめかみを殴っている間に、アリアは泥で目潰しを。
ラウルに蹴り飛ばされてふらついた男のことは、肩を掴んでくるりと反転させ、背後からの攻撃の盾代わりに。
『なんか……』
いつでもブレスを吐けるよう地面で構えていたバルトが、微妙な表情で呟いた。
『アリア、思いのほか強くねえ……?』
さらに言えば、思い切り卑怯な戦いぶりでもあった。
「アリア・フォン・エルスター。助勢はありがたいが、下がっていなさい。危険だ」
ラウルはといえば、華麗な剣戟を披露しながら、あくまでも神妙に告げる。
今また一人を足蹴にしたアリアは、ふふんと口の端を引き上げた。
「ご心配なく。これでも下町じゃ、喧嘩は強かったのよ。さっきは、薬を盛られていいとこなしだったけど……でも今は逆に、体中に力が漲ってる。何人でも掛かってこいって感じ」
技が次々と決まる快感に、彼女は少々酔いしれた。
これまでのアリアは、敏捷なものの、力で圧し負けてしまうというのが不満だった。
なのに今は、本来以上の力が引き出されている感覚があり、男たちが気持ちよく吹き飛んでいく。
こんなのは初めてだ。
「……なおさら下がりなさい」
だがラウルは、ますます表情を苦いものにした。
「それは興奮剤の影響だ。今は高揚していても、後で酷い痛みに襲われる」
「でもあたし、役に立ってるでしょ?」
「アリア・フォン・エルスター。戦場はドレス姿の女性が臨む場所ではない」
頑固なアリアに、ラウルが思わず溜め息を漏らす。
そのとき、彼の斜め後ろから、
「聖騎士様ぁ! お助けください!」
哀れっぽい男の声が聞こえ、清廉な聖騎士は本能的に、そちらに向かって手を差し伸べた。
「どうした――」
――ばさっ!
その瞬間、アリアがラウルの前に回り込み、自身のドレスの裾を巻き上げる。
そのおかげで、被害者を装った暴徒がラウルに投げつけた油の樽は、柔らかい布に弾き返された。
「ご存じ? ドレスって、こういう風に攻撃を跳ね返すために使えるの」
目を見開いたラウルに向かって、アリアは勝気に微笑んだ。
ちなみにヒールには、固い鉄芯も仕込まれている。
女の装いは、すなわち武器だ。
「下町の人間の戦い方はいつも卑怯よ。油断しないことね、お坊ちゃん」
「……足を早く隠しなさい」
揶揄には応えず、ラウルは憮然とした顔でアリアのドレスを直した。
「うわああ!」
とそのとき、アリアたちの背後から、再び哀れっぽい男の悲鳴が聞こえる。
ただし今度は演技ではなく本物で、声の主はヨーナスだった。
少し目を離した隙に、隣にいる司書ともども、暴徒たちに油を浴びせかけられたのだ。
「でかした! これで一気に、燃やすぞお!」
先遣隊の活躍を喜ぶように、離れた場所で応戦していた群衆から、松明が投げつけられる。
「危ない!」
ラウルはマントを広げてヨーナスたちを庇い、アリアは咄嗟に、燃えさかる木の棒を受け止めた。
「あっつ!」
うっかり炎に触れてしまい、取り落としそうになるが、なんとか持ち替えて踏みとどまる。
先ほどアリアのドレスが弾き返した油が、すぐ足下に撒かれているのだ。
ここで松明を落とすわけにはいかなかった。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫、アリアちゃん!? ごめんね! ありがとう!」
事情を理解しているラウルたちは、さすがに「なんという無茶を」と責めるわけにはいかなかったらしく、心配そうに声を掛けてくる。
「このくらい平気。ヨーナス様こそ油を浴びちゃったんだから、気を――」
気を付けて、と続けようとしたが、アリアの忠告は遮られることとなった。
「な、なんということを! なんということを!」
ヨーナスのすぐ隣にいる人物が、突然叫びだしたからである。
大慌てで顔を拭っているのは、ともに暴徒に囲まれていた司書の男で、どうやらまともに油を浴びてしまったらしかった。
「聖職者を油で汚すなど……! せ、精霊の罰が下るぞ! この愚か者! ごほっ……、この、愚民どもが!」
時折むせながら、激しく罵る男の声を聞き、アリアはふと動きを止める。
聞き覚えがあったからだ。
――この愚か者!
神経質で、こちらへの侮蔑を隠しもしない、男の金切り声。
「お、落ち着いて! 大丈夫ですか!?」
男の激しい罵倒に驚いたヨーナスが、困惑気味に背をさする。
「聖職者でいらしたんですか。ええと、それは、荒事なんてびっくりしますよね」
「ふん、今はしがない司書ですがね。それでも、精霊の教えを忘れた日は一日たりとてありませんよ、ヨーナス殿。ああ聖騎士様、どうか彼らに粛正を」
おもねるときには、ねっとりとした猫なで声を出す男。
――なに、悪いようにはしない。仲間を、助けたいんだろう?
ごうっ、と、手にした松明の炎が唸った気がした。
汗が滲む。
視界が歪む。
心臓がどくどくと嫌な音を立てている。
胸に下げている金貨が、炎の熱を受けてなのか、布越しに肌を焼くように感じられた。
(なんで、ここに……)
男はごしごしと顔を擦り続け、ようやく気が済んだのか、袖を降ろす。
ヨーナスの影に隠れ続けていたその顔が、いよいよ炎に照らし出された。
「まったく、許しがたい。私が聖職者のままであれば、この場で教会に訴え出て、彼らを牢に繋いでやるのに」
「で、できれば、あまり彼らを挑発しないでほしいんですが……
かつてアリアを買おうとした男。
咎めたベルタに盗難の罪をかぶせて、大げさに騒ぎ立てた男。
教会の機嫌を損ねるや慌てて聖職者の座を離れ、どこかに身を隠した男。
――エメリヒ。
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