29.黄金を巡る攻防(2)
呆然と黙り込んでしまったアリアに、一番に気付いたのはラウルだった。
「アリア・フォン・エルスター?」
「…………」
アリアはなにも答えられなかった。
口の中がからからに干上がる。
地面から突き上げるような衝動に、声も出せずにいた。
「どうした。いつまでも松明を持っていては危ない。こちらに寄越しなさい」
ラウルが伸ばした腕を、咄嗟に避ける。
それからまじまじと、己が握り締めている松明の存在を意識した。
炎。
ついで、エメリヒを見る。
油をかぶった男。
ぞく、と、背筋から首にかけて、羽で撫で上げられたかのような感覚が走った。
今、自分はなにを考えた。
(松明を、渡さなきゃ)
胸の内で、必死に己に言い聞かせる。
自分のドレスの裾にだって、油は掛かっているのだ。
唯一無事なラウルに松明を預け、腕力の強い彼に、遠くまで投げ捨ててもらう。
あるいは、土をかぶせて火を消す。
そうしなくては。
(でも……)
けれどアリアは、こうも思わずにはいられなかった。
この松明を、ほんの少し、あの男に近付けてやれば。
すごく――胸がすく光景を見られるのではないか?
(べつに、殺しはしない)
すぐ隣に、有能な聖騎士がいるのだ。
憎い男に火をつけてやったところで、すぐに消火されてしまうだろう。
だが、ひどい火傷は負うかもしれない。歩けなくなるくらいの。
それならいい。
少しでも苦痛を、この傲慢な男に、味わわせることができるなら。
「なんだね、君……?」
エメリヒが当惑した様子でこちらを見ている。
髪を伸ばし、ドレスを着たアリアの正体に、彼は気付いていないらしい。
思わず笑いだしそうになった。
この男にとってアリアは、ベルタは、それほど些末な存在だったのだ。
エメリヒはきっと、過去の所業を思い返しもしなかっただろう。
精霊の教えとやらは、一日たりとも忘れたことがないそうなのに。
「……あたしのことを、覚えてる?」
じり、と、松明を持ったまま、エメリヒに一歩近付く。
彼は炎に顎を引いたものの、まだアリアのことを思い出せずにいるようだった。
おそらくは、ベルタのことも。
「寂しいなあ。
鬼気迫った様子のアリアに、ラウルが静かに息を呑む。バルトもぴんと尻尾を伸ばし、慎重にこちらを見上げた。
「わかった。小さい子が好きなんだ。弱くて、抵抗できない子をいたぶるのが好きなんでしょ。そうよね、真っ先にしたのが、殴って、服を破ることだったし」
「…………!」
ようやく、エメリヒがはっとする。
ヨーナスに至っては、ぎょっとエメリヒを振り返り、真っ青になっていた。
「まさか……!?」
「ひ……っ」
「動かないで」
咄嗟にその場を逃げだそうとしたエメリヒを、アリアは鋭く牽制する。
「ちょっとでも動いたら、すぐにこの松明を投げつける」
金貨を下げた胸のあたりから、獰猛なほどの憎悪が燃え広がり、息苦しいほどだった。
「たとえ誰を巻き込もうが、絶対、燃やしてやるから」
ぎり、と奥歯に力を込めると、血の味がした。
(ああ、なんで彼の言うとおり、金貨を外しておかなかったんだろう)
不思議なことに、頭の片隅では、冷静なアリアが、松明を掲げる自分を見下ろしている。
今の自分が、「憤怒」に蝕まれているのは、理解しているつもりだった。
理解して、そのうえで、うまく折り合いをつけているつもりだった。
だって、ほかの宝石とは異なり、金は何百という民とで分け合っているのだ。
取り憑いている大罪だって、数百分の一に希釈されているだろうと、どこか軽く考えていた。
あるいは、自分の怒りは盗難行為ですっかり発散してしまったのだろうと。
その証拠に、暴徒たちを前にしても、一緒に革命を起こしたいだなんて思わない。
だが、違った。
アリアは単に、憎しみの対象を見つけ出せていなかっただけなのだ。
エメリヒを前にした途端、全身を揺さぶるような凄まじい感情の嵐に襲われ、呼吸もままならない。
今すぐ飛びかかって、彼の顔を引き裂いてしまいたかった。
ベルタの死を、ほんのひとかけらでいい、償わせてやりたかった。
「そ、そうだ、嬢ちゃん……」
突然、仲間のはずの司書に松明を向け出したアリアを見て、倒れていた男たちが掠れた声を上げる。
すっかりラウルや衛兵に無力化されていた彼らは、救世主を仰ぐように、アリアに腕を伸ばした。
「燃やせ……!」
「そいつに火を投げつけろ!」
「そうすりゃ、ここは一気に、火の海だ!」
彼らの声は切実だった。
残虐を喜ぶ暴徒というよりは、助けを求める被害者のような声だった。
「届けてくれよ、俺らの声を!」
「奪い返せ!」
「俺たちを巻き込んでもいいんだ。なあ、燃やしてくれ!」
それはそうだ。
なぜ気付かなかったのだろう。
彼らは実際のところ被害者だ。
戦闘を楽しむためではなく、訴えたいなにかがあるから、炎を携えてこの場にやってきた。
それぞれに奪われたものがあり、取り返したいものがあり、けれどそれが叶わなくて。
胸が張り裂けるような痛みを抱えて、だからこんなに怒っている。
憤怒。
それは大罪なんかではない。正義だ。
誰かを救うための強い意志。
使命を果たすために与えられた、心を奮い立たせる感情。
『おい、アリア! アリア、なに考えてんだ!』
猛る炎が、持ち手を握るアリアの指までをも焦がす。
どこか遠くに相棒の声を聞きながら、ゆっくりと、松明を持ち直した。
『よせ! やめろ! 一歩間違えば、ここいら全部が燃えちまうぞ!』
「いけ! 投げろ!」
「貴族どもを燃やしちまえ!」
男たちが囃し立てる。
ラウルたちは動かない。
動けないのだ。
強引に松明を奪おうにも、その瞬間、アリアが松明を叩きつけてしまえば終わりだから。
それくらい俊敏にアリアが動けることを、彼らは知っているから。
「……はは。油のせいで、揚げ物の屋台みたいな匂いね」
声が、揺れる。
「美味しそうな匂いだと思わない? 屋台って、孤児には売ってくれない人も多いから、お腹いっぱい揚げ物を食べるっていうのが、下町時代の夢だった」
睨みつけたエメリヒは、顔面蒼白になって、小刻みに震えていた。
被害者みたいな顔をして、怯えやがって。
「院長にも買ってあげたかったなあ。自立したら、どうやって恩返ししようかって考えるの、好きだったのよ。孤児は義理堅いの。あげたいものは、たくさんあった」
怯えた顔をすべきは、ベルタのほうではないか。
苦しみを訴える権利があるのは、目の前のクソ野郎ではなく、清廉だった院長のほう。
老齢の彼女は、真冬の牢に囚われて、どれほど寒い思いをしただろう。
荒くれ者に囲まれ、どれほど恐ろしい思いを。
食事も出されず、どれほどひもじい思いを。
「温めてあげたかった……」
ぎゅ、と、松明を握り締める。
あんまりだと思った。
蛆虫みたいな男はのうのうと過ごしているのに、人を慈しみ続けた彼女は、凍える牢で人生を終えてしまったなんて。
「抱きしめてあげたかった。毛布にくるんで、温かいスープを飲ませて……あの人があたしにしてくれたように、あたしが……っ、今度は、彼女を、……守りたかった……っ」
なのにできなかった。
引き留めた腕は宙を掻き、ベルタは独り、空の向こうへ。
なにもかもを、奪われたのだ。
「許さない……」
ならば、取り返さねば。
奪われたなら、奪い返す。
苦しみには苦しみを。
命には命を。
帳尻を合わせることの、なにがいけない。
「あんたなんか、殺してやる――!」
「アリア・フォン・エルスター!」
松明を振り上げようとしたその瞬間、大きな声で名を呼ばれた。
声の主は、ラウルだった。
彼は、相変わらず美しい、冬空を思わせる瞳で、まっすぐにアリアを見つめた。
「『憤怒』に呑まれてはいけない」
動きを止めたアリアに向かって、大きな手を差し出す。
「松明を、渡しなさい。人の道を外れてはならない」
――あなたたちが人間になりなさい。
なぜだかラウルの姿が、ベルタと重なって見えた。
(ああ……)
今さら、気付く。
姿形はかけ離れているけれど、ラウルとベルタはそっくりだ。
その揺るぎない正しさと、優しさが。
まっすぐな眼差しが。
心の底から、アリアを信じて疑わない在り方が。
(院長)
不意に、厳しかったベルタの顔が脳裏をよぎり、アリアは瞳を揺らした。
足下がふらつく。
興奮剤で追いやっていた痛みが、一斉に体のあちこちで存在を主張しはじめ、頭が割れそうになった。
(院長、院長、院長)
エメリヒが憎い。
やつから何もかもを奪ってやりたい。
いいや、ベルタはそんなことを望みやしないだろう。
人としての在り方。彼女がアリアたちに求め、教えたもの。
ささやかなぬくもりや、ちょっとしたキス。
許し。
けれど、頬が思い出した優しい記憶は、すぐにどす黒い憎悪に塗りつぶされてしまう。
逃がさない。
殺してやる。
絶対に許さない。
「アリア・フォン・エルスター」
再度、彼が名を呼ぶ。
「アリア」
己の名を紡ぐ、美しい唇。
それを見て、アリアはぽつりと、「約束を果たさなくては」と思った。
さっき自分は、エメリヒを怒鳴りつけた。
ラウルいわく、この怒鳴り声は、悲鳴の代わりだそうだから。
怒るのは、傷付いているということで、怯えているということだから、同じ思いをしたときは、ちゃんと、周囲に縋らなければならない。
そう、彼と、約束をしたから。
「――……ラウル」
唇が、震える。
体に収まりきらない憎悪が、めちゃくちゃに暴れ回って、全身が内側から千切れてしまいそうだった。
「苦しいの。……助けて」
張っていた糸が切れてしまったように、目の端にじわりと涙が滲んだ。
どす黒い怒りは、ただただ、苦しかった。
「もちろん」
ラウルは即座に動いた。
力の緩んだアリアから松明を奪い、油に濡れていない遠くの石床に投げる。
その展開を願ったはずなのに、取り上げられたしまった松明を見た途端に、押さえつけていた憎しみが再燃し、アリアは衝動のまま、エメリヒに掴み掛かった。
「だめ……! やっぱり、許せない……っ」
「アリア」
「殺してやる……殺してやる!」
「アリア」
そのまま馬乗りになろうとしたアリアを、ラウルが食い止める。
ひえっと悲鳴を上げるエメリヒを振り向きもせずに逃がし、ラウルはアリアの拳を掌で止めた。
「やめなさい」
「止めないで! あいつを……っ、あいつから、全部奪ってやらなきゃ!」
「だめだ」
腕を振り上げれば、腕で。
足で蹴ろうとすれば、足で。
体すべてを使って動きを封じられ、気付けば抱きしめられているような格好になる。
ごく至近距離から、ラウルは静かに告げた。
「あの男がどうなろうと構わないが、君の拳が傷付く」
「な……っ」
「君に見てほしいものがある」
驚きに言葉を失ったアリアの前で、ラウルは素早く、自身の腰の辺り――ベルトに括りつけられていた布袋を探った。
器用な指が取り出したのは、薄く割られた、両掌ほどもある石片だった。
「なに……?」
「牢の壁。そこに使われていた、煉瓦の一部だ」
ざらりとした手触りの、赤茶けた石を、ラウルは宝石でも扱うような慎重さでアリアに掲げる。
宵闇の中、遠くで燃える炎を手掛かりに目を凝らし、アリアははっと息を呑んだ。
「君の話を聞いてすぐ、ベルタ院長が囚われていたという牢に向かった。なにも守れなかった聖騎士だが、せめて、祈りを捧げたかった。すると、雑居房の壁にこれを見つけて……その一部だけを割って、剥がさせてもらった」
ラウルの持ち帰った煉瓦には、木炭でびっしりと、字が書かれていた。
角張った、右上がりの、女性の筆跡。
「これ、は……」
「遺言だ」
それはベルタの文字だった。
「文字の書かれた壁は、広範囲にわたっていた。多くは日付と、どんな厚意を受けたかという記録だった」
書かれていた文字を、ラウルは静かな口調で再現してみせた。
看守の一人から木炭を頂く。無聊を慰めよとの由。
精霊の恵みが彼に降り注ぎますように。
一番換気のよい場所に、物売りの女性が寝床を替わってくれた。
精霊に感謝を。
隠し持っていた林檎を一口分けてもらった。
背中をさすってもらった。
咳を気遣ってもらった。
思い出話を聞かせてもらった。
字を教えた。
それ以上の学びを得た。
精霊に感謝を。
「…………っ」
ぐう、と喉が鳴った。
ああ。
どうして彼女は、どこまでも彼女なのだろう。
下に行くほど木炭が薄く、文章が短くなっているのは、力が入らなくなっているせいだ。
途中から文字が横に傾いているのは、起き上がれないまま書き記したせい。
だというのに、ベルタの人を信じ、愛する心は、かけらも揺らぎやしなかった。
闇の中に見出した希望を数え上げる、その一文字一文字から、感謝の念が伝わってくるかのようだった。
「擦ればすぐに消えてしまう字だ。だがこれは、三年もの間、牢の壁に残り続けた。囚人たちが触れなかったからだ。聖域を守るように、囚人たちは彼女の遺言を守り続けた」
「――……ふっ、……う、……」
最後の記述は、最も弱々しい筆跡で、こうあった。
頭に入れた教養と、心に込めた愛は、誰にも奪われない。
学び、愛し続けなさい。
アリア。
わたくしの可愛い子どもたち。
それを読んだ瞬間、堰を切ったように、涙があふれ出した。
「うあああ……っ!」
「彼女は」
石片を握り締めるアリアを、ラウルが、強く抱きしめてくる。
幼子に言い聞かせるように、彼は静かに囁いた。
「なにも奪われなかった。大切なものはすでに、彼女の中にあったから。教えと誇りを胸に抱き、何者にも尊厳を侵されることなく、天に昇った。なにも、奪われなかった」
奪われなかった、という言葉をラウルは何度も繰り返した。
「だから、アリア。奪い返さなくていい。彼女は満ち足りたまま天に昇ったんだ。どうか彼女の献身を、否定しないでほしい。彼女の教えを、守ってほしい」
涙はとめどなく頬を流れ、顎を伝い、胸元の金貨に落ちた。
いくつもの滴が金貨を叩くごとに、暗闇のようだった怒りが薄れ、少しずつラウルの言葉が染みこんでいく。
祈るような声だと思った。
静謐で、揺るぎなくて、でも切実な響き。
「――……『汝、隣人を、愛せよ……己を愛するがごとく』」
しょっちゅう祭壇の前に跪き、祈りを捧げていたベルタの背中を、しわがれた声を、なぜだか思い出す。
彼女が何度も何度も、聖書を暗唱するものだから、不信心なアリアたちでさえ、すっかりその一説を覚えてしまった。
「『学びを絶やすこと、なかれ。知識は、闇を照らす光』」
覚えている。
一言一句違わず。
本当に大切なものは奪われない。
たとえ、外にぶら下げた財が、盗人にすべて奪われてしまうことがあっても、頭に入れた教養と、心に込めた愛は、けっして誰にも奪われない。
だから、アリア。
干しぶどうみたいな、しわくちゃの修道女は、必ずアリアと目を合わせて言った。
学び、愛し続けなさい。
愛とは、人を許すこと。
「『天に』」
呟く唇のすぐ横にも、涙は後から後から、滑り落ちていった。
精霊なんて、結局のところ、信じてはいなかった。
でも祈りを捧げる行為は、いつの間にか癖になった。
だって、彼女が口うるさく言うから。
「『天にまします、我らが……母よ』」
アリアを置いて天に昇ってしまったベルタのことを、祈りの中では、母と呼べるから。
――精霊の定めた法は、守らねば。
凜としたベルタの声を遠くに聞きながら、ふうっと、意識が薄らいでいくのを感じる。
(そうね)
ラウルにだろうか。それともベルタに。
アリアは頷き返したつもりだった。
(精霊なんてクソくらえだけど)
「アリア」
『アリア!? アリア!』
「アリアちゃん!」
男たちが呼びかける声が聞こえる。
皆一様に、焦った声だ。
(騒がないでよ)
心配しなくていい。
もう怒るのはやめたから。
あの男のことはやっぱり許せないけれど、王都を巻き込んで丸焦げにするのは、勘弁してやる。
刺し殺すのも、絞め殺すのも。
とってもとっても嫌だけど、ベルタがそう言うのなら。
彼女が――幸福であったなら。
ラウルの腕に抱き留められたまま、アリアは気を失った。
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