26.ダイヤを巡る攻防(4)
よろりと身を起こしたアリアは、無表情で佇むラウルと、窓辺に倒れるドミニクを交互に見やり、徐々に状況を呑み込みはじめた。
駆けつけたラウルがドミニクを引き剥がし、窓辺まで殴り飛ばしたのだ。
「助けに――」
きてくれたの、と胸を撫で下ろしかけ、途中で口を
ラウルがドミニクを殴り飛ばした。
よかったよかった。
そう、窓辺まで。――窓辺まで?
(は?)
ソファセットから窓辺まで、どれだけの距離があると思っているのだ。
殴り飛ばすというか、吹き飛ばす。
人間の拳で実現されてはならぬ飛距離に、つい、冷や汗が滲んだ。
よく見れば、ラウルの足下では、バルトががくがく震えながら蹲っている。
『やめやめやめやめてくれ! その凶器みたいな精霊力、早く引っ込めてくれよ!』
「よくも、このような見下げた行いを」
尻尾まで波打たせて震えるトカゲに、しかしラウルは一切構う素振りを見せず、倒れ込んだドミニクにゆっくりと近付いてゆく。
「ぐ……っ」
「その指輪は、回収させてもらう」
呻く叔父を蹴り飛ばして体勢を変えると、取り出したハンカチを使って、強引に指輪を抜き取った。
その際、アリアの聞き間違いでなければ、ごきっと鈍い音がしたようなのだが。
「ぐぅあ……っ!」
(ひっ!)
ドミニクの漏らしたくぐもった叫びに、アリアは思わず内心で悲鳴を上げた。
(こっ、怖い強い容赦ない!)
人は、自分以上の酔っ払いを前にすると、酔いを覚ますという。
自分以上に怒り狂っている相手を前に、アリアは怒りも嘔吐感も手放し、ただ呆然とソファで固まってしまった。
「無事か」
「え……」
「無事かと聞いた」
不意に、ラウルがこちらを振り向き、足を踏み出してくる。
アリアは本能的に、ソファに全身を押し付けるようにして身を引き――だって、先ほどのドミニクの五百億倍ほど怖い――、そんな自分に気付くと、慌てて胸元の金貨を握り締めた。
天にまします我らが母よ。
どうか、この魔王みたいな男と向き合う力を。
(っていうかなんでこいつ、こんなめちゃくちゃ怒ってんの!?)
凄まじい気迫だ。
もし自分に急所があったなら、きっと今頃へそのあたりまで縮み上がっている。
「ぶ、無事……。うん、もう、全然無事。今すぐ華麗なステップ踏めそうなくらい元気」
「頬が腫れている。腕もだ。虚勢を張るのはやめなさい」
こちらの頬や手首を見た途端、ラウルのまとう温度が一層低下した気がした。
アリアは震え上がる。
そうか、彼は、あれだけ忠告したにもかかわらず、無謀にも一人で宝石を回収しようとして大失敗したアリアに、腹を立てているわけだ。
咄嗟に「すみませんでした!」と叫びだしそうになったが、持ち前の勝気さが辛うじてそれを制止する。
なぜ自分が彼に謝らなくてはならないのか。
嗅がされた興奮剤が今さら効いてきたこともあってか、アリアの唇はぽろぽろと言い訳を始めた。
「きょ、虚勢じゃない。殴られるのも作戦の内だったし。女の戦いは油断させてからが本番っていうか。殴られた時点でこっちの勝利は八割方決まってたっていうか」
ラウルはかすかに眉を寄せ、無言で目の前に跪く。
言葉よりもよほど雄弁な非難の気配を感じて、焦りがますます募った。
「うん、すごく優勢だったの。あんたが来なくても、一人で宝石を回収できた。少なくとも、三分前まではそう見えた。すぐに逃げ出さなかったことを怒ってるんだろうけど、でもあの状況なら、十人中十一人、自力での宝石回収を選んだんじゃないかな。絶対そう」
彼が手を伸ばしてくる。
アリアは押しつぶす勢いで金貨を握り締め、とうとう声を荒らげた。
「だ、だいたい、あんたがいないのが悪いんじゃない! 人が自助努力しようとしたことに対して、そんなにキレなくたって――」
「遅くなって悪かった」
だが、頬を慎重に撫でる手の感触と、それ以上に静かな声に、叫びは途切れてしまった。
アイスブルーの瞳は、ただいたわしげにアリアを見つめていた。
「君の無茶を、私は怒らないことに決めた。だから、怯えて怒鳴るのは、もうやめなさい」
「な……」
大きな手は、相手を威圧することを恐れるかのように、すぐに体から離される。
頬に残った体温の余韻だけを感じ、アリアはすっかり、どうやって彼を罵るべきかわからなくなってしまった。
「なにそれ。怯えてなんて」
「怯えている。君の怒鳴り声は、悲鳴の代わりだ」
「ち、違うわよ。攻撃したいから叫んでるに決まってるでしょ。この睨み顔が目に入らないわけ?」
「今にも泣き出しそうな顔に見える。それに……震えている」
「薬のせいよ。それか、気が立ってるせい。怒りに震えてんの」
「違う」
ラウルはそっと両手を伸ばし、ガラス細工に触れるようにして、アリアの頬を包んだ。
「怯えている」
「…………っ」
「怒らないし、責めない。無茶をするなと、頭ごなしに叱ることはもうしないから……せめてこうしたときは、助けを呼んでくれないか」
こちらをまっすぐ射貫く瞳には、呆れも蔑みもなく、もちろん下卑た欲望すらもない。
彼はいつもの、夜を思わせるような静かな声で、ゆっくりと告げた。
「君は怒っているのではない。傷付いて、怯えている。今度同じ思いをしたときには、私を――誰でもいい、ちゃんと、周囲に縋ってくれないか。必ず、助けに来るから」
正体のわからぬ衝動が込み上げ、アリアは咄嗟に唇を噛みしめた。
なんだ、これは。
こんな、心臓がじわりと焼き付けられるような感情は知らない。
詰られたときよりよほど、泣き出したくなるような。
どうしようもなく不甲斐ないような、それでいて許されたような、不思議な感覚。
「アリア・フォン・エルスター。返事は」
「…………」
「はい、と言いなさい」
幼子に対するように繰り返されて、アリアは思い切りしかめっ面をした。
今まさにしようとしていたことを、頭ごなしに命じないでほしい。
さすがの自分だって、こんなに許されてしまったら、素直に頷きくらいする。
少し待ってほしいだけだ。
今、口を開いたら、みっともなく声が震えてしまいそうだから。
(馬鹿じゃないの、この人)
普通ここは、迷惑をかけたアリアを叱るべきところだ。
大口を叩いて、独断専行を働き、挙げ句窮地に陥ったアリアに、「なにをやっているのだか」と呆れるべきところ。
だというのに、なんだって彼は、何度も手を差し伸べてくるのか。
こんな、可愛げもない、跳ねっ返りの、感情的で攻撃的な女に。
(馬鹿じゃないの……)
善良でも高貴でもないアリアに、返せるものなど何もない。
だからせめて、彼の望む返事を寄越そうとした。
「――……わかっ」
『おい、後ろ!』
だが、ようやく呼吸を整え、口を開いたそのとき、バルトが鋭く
アリアははっと顔を上げ、ガラス片を握ったドミニクが、ラウルの背に腕を振り下ろそうとしているのを見て取ると、咄嗟にラウルに向かって身を乗り出した。
「危ない――!」
――ゴッ!
鈍い音が響き渡る。
「アリア・フォン・エルスター」
だがそれは、ドミニクがラウルを刺した音でもなければ、アリアがラウルを押しのけおおせた音でもない。
ラウルが振り向きもせず、片手の一振りで、ドミニクを撃退した音だった。
「返事は『はい』」
なおドミニクは、彼の背後でみぞおちを押さえてのたうち回っている。
「は――」
いろいろな感情がいちどきに去来し、瞬間的に無の境地に達したアリアは、シンプルにこう答えた。
「はい」
「よろしい」
改めて思う。
この男には敵わないと。
そしてなぜだか、こうも思った。
きっと彼は、言葉の通り――自分が窮地に陥った際には、必ず手を差し伸べてくれる。
それも、上からではなく、真正面からだ。
返事を聞いて満足したのか、ラウルが頬からもう片方の手を離す。
その骨張った大きな手を、なぜだか追いかけそうになってしまい、アリアは自分に驚いた。
先ほどから、心臓がそわそわとして落ち着かない。
込み上げる熱に染まった頬が見えぬよう、アリアはこっそりと顔を逸らした。
が、すぐにそれに気付いたラウルに、再び顎を掴まれてしまう。
美しい眉をわずかに寄せた彼の顔が――どうしたことだろう、まともに見ていられない。
「顔が赤い。もしや、熱が出てきたのか」
「そうね。そうかも。うん。これは、殴られたのと、薬を嗅がされたせい。間違いなく」
「……もう数発殴っておこう」
静かに立ち上がったラウルのことを、アリアは「待った!」と慌てて制止した。
「そんなにぼかすか殴らないでよ!」
「身内だから容赦するなどと思わないでほしい。見るのが嫌なら後ろを向いていなさい」
「違う、そうじゃなくて」
淡々と闘志を燃やす男を押しのけ、アリアはふと小さく笑みを浮かべた。
つかつかとドミニクに歩み寄ると、その笑顔をすっと打ち消す。
それから、風が鳴る素早さで、男の急所に向かって踵を振り下ろした。
「あたしのぶんも残しておいてくれないと」
鈍い音と響き渡る断末魔に、なぜだか床のバルトがぶるりと震え上がった。
ラウルまでたじろいだように、視線をわずかに逸らした。
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