25.ダイヤを巡る攻防(3)
(予定より時間が掛かってしまった)
すっかり朱色より紺色の面積を増やしてしまった空を見上げ、ラウルは整った眉を寄せた。
途端に、周囲を歩く町娘たちが「きゃあっ」と歓声を上げたので、すぐに視線を落とし、歩きはじめる。
精霊じみた彼の美貌は、こんな下町の、視界の悪い夕暮れにあってさえ、周囲の視線を集めてやまなかった。
(本当なら、すぐにでも叔父上に話を伺いたかったが)
エルスター家を出た直後のラウルは、即座に屋敷に戻り、叔父のドミニクを捕まえるつもりだった。
なぜなら、この一連の事件に対する違和感が、いよいよ抑えきれなかったからだ。
すなわち、「大罪」に憑かれた宝石の所持者が、王の忠臣に偏りすぎているということである。
ヨーナスたちの発言を信じるなら、「大罪」は持ち主の魂を蝕むらしい。
だとしたらこれは、忠臣たちを狙った工作と捉えるのが妥当ではないか。
ラウルはそう考えた。
振り返ってみれば、ヒルトマン家のエメラルドや、マイスナー家のサファイア、そしてクレーベ家のガーネットは、どれも個人が贖ったものではなく、国王から下賜された品だ。
国王からの品ということは、貴族会議を経て内容が決定されたものということである。
つまり、誰かが議論を操作して、宝石を配することは可能であり、その人物こそが、この件の黒幕である可能性は高いと言えた。
若輩の聖騎士でしかないラウルとは異なり、叔父のドミニクならば、伯爵の代理として上位貴族会議にも出席が許されている。
彼に聞けば、どのように褒賞が決まり、与えられているかの情報が得られるだろう。
だが、それを後回しにしてでも、ラウルにはどうしても寄っておきたい場所があったのだ。
だから途中で馬車を飛び降り、舗装の悪い道でブーツを泥まみれにしながら、下町のとある区画を駆け回った。
そして、その甲斐はあった。
ラウルは、布で厳重に包んだあるものが、ベルトに下げた布袋にしっかり収まっているのを確認すると、長い足で素早く道を進んだ。
細い小道ばかりなので、馬車や馬ではなく、徒歩で移動するしかないのだ。
すえた臭いのするこの道は、下町の中でも飲食店街に当たるらしい。
道の両端からぎりぎりまで軒がせり出し、その下の屋台や酒屋からは、夏の夜気と混ざった熱気が、あたり一帯に立ちこめている。
日が暮れるのと比例して、徐々に広がっていく酒の臭いと喧噪――。
普段なら、それは活気ある光景として映るのだろう。
しかし今、耳に飛び込む客の声や、テーブルを囲む男たちの表情が、妙な気配をまとっているように思われて、ラウルはふと歩みを止めた。
男たちも、騎士服をまとったラウルをさりげなく観察していたのか、慌てて目を逸らす気配がする。
すぐに杯をぶつけ合って、笑い声を上げだした彼らに、おかしいところはない。
だが、どうしてもなにかが引っかかり、ラウルはしばし、その場に立ち止まった。
(……なんだ?)
それは、胸騒ぎ、としか呼べない不確かな感覚だ。
肌がひりつくような、空気が重く感じるような、本能的な警告。
精霊の愛し子と呼ばれるラウルは、常人より身体感覚が優れているためか、あるいは周囲の精霊が呼びかけでもしているのか、ふとした拍子に、こうした勘を発揮することが多かった。
(なにが気に懸かるのだろう)
歩みを再開し、考える。
軽く目を伏せながら、ラウルは感覚を研ぎ澄ました。
あちこちで男たちの声がする。
笑い声、野次、罵倒。
ありふれたそれらに混ざって、ときどき交わされる、剣呑な囁き。
多くの男たちは陽気だ。
だが、テーブルの合間、店同士の隙間、軒が途切れて暗い影が落ちた場所――ところどころでふと、言いようのない、悪意の凝った気配がする。
時折つんと鼻をつく、独特な臭い。
胃がもたれるようなこれは、店という店が、下町らしく揚げ物ばかりを扱っているせいだろうか。
重く、どろりとした、不穏な気配。
(空気が、淀んでいるな。最近は王都で小競り合いが頻発しているというから、そのせいだろうか。荒れた人心が作り出す空気は――三年前と似ている)
重苦しく、どこか緊張感を孕んだ空気。
それは、季節も違うというのに、ラウルに三年前の暴動を思い起こさせた。
軍部が王に向かって蜂起したあの日、ラウルは聖騎士の一人として、王城にいた。
どこからか資金を得て、立派な装備に身を固めた兵に、少数精鋭の騎士として立ち向かったものだ。
あのときの自分は、成すべきことを、すべてしたつもりだった。
城門を破ってなだれ込もうとする兵を倒し、王やその家族を守り抜いた。
暴動の鎮圧後も、叔父ドミニクの提案に沿って、暴動に巻き込まれた人々に見舞金が行き渡るよう、私財を放出したりもした。
騎士として、あらゆる務めを果たしたつもりでいたが――そんなことは、まったくなかったのだ。
――死んだの。死んじゃったの。
アリアの、血を吐くような告白を思い出す。
あの強気な彼女が、目を潤ませていた。
声も、金貨を握り締める手も震えていて、その姿は、ラウルの心をどうしようもなく掻き乱した。
いつも目を凜と輝かせている彼女の、あんな心細そうな声は初めて聞いた。
細い体は折れてしまいそうなほど頼りなく、涙をこぼすまいと必死に唇を引き結んでいる顔は、まるで寄る辺ない子どものよう。
暴動の爪痕は、それほどに大きかったのだ。
(私は……騎士としての務めを果たすどころか、三年も嘆き続けている女性の、涙ひとつ止められないでいたのか)
ラウルは知らなかったのだ。
暴動があんな形で、いくつもの悲劇を生み出すものだとは。
数日で鎮圧したはずの王城の騒動が、貧しい町に飛び火して、しかも弱き者に広がれば広がるほど、苛烈さを増していくものだとは。
――罪にもならない罪を自首しに行って、死んじゃったのよ。
アリアは仲間を守ろうとしただけだった。
ベルタは子どもの尊厳を守ろうとしただけだった。
なのに、片方は心に傷を負い、片方は命を落とした。
薬がなかったせいで。人々が争ったせいで。
誰の手も差し伸べられない、貧しい地にいたせいで。
薄汚い町の中、身を寄せ合うようにして、あちこちで話し込んでいる男たちに目を向ける。
下町の住民たちは、先ほどのアリアとどこか似た表情を浮かべているように見えた。
傷つき、怒りを湛えた顔だ。
(いったい、なんだ……?)
どこからともなく漂う、うごめくような敵意。
肌にまとわりつくようなそれが、いよいよ気になって、ラウルは男たちの一人に声を掛けようと身を乗り出した。
「失礼――」
『やあっと見つけた!』
だがそのとき、下から怒ったような声が聞こえ、動きを止める。
視線を落とせば、足下に、白いトカゲが這っていた。
「君は……」
『宝の守り手、偉大なるバルトロメウス様だよ! まったく、貴族らしく、大人しく馬車で帰りゃいいのに、こんなところまでほっつき回りやがって』
そうだ、バルト。
アリアの相棒を自称する精霊だ。
ヨーナスの説明ではたしか、本性は、蔵を守る像に宿っていたドラゴンだが、精霊界での素行が悪くて、トカゲの姿に落とされたとか。
(人語を操るほど高位の精霊なのに、気配が希薄なのはそのためか)
ラウルの精霊力は膨大で、精霊王が顕現しても対等に会話できるだろうと噂されるほどだが、そのぶん、小さき者たち――つまり、風の囁きや火の粉に宿るような、末端の精霊の存在は、姿に気付くことも声を聞き取ることもしにくい。
精霊のほうが圧倒され、萎縮してしまうからだ。
それゆえに、バルトのことも、よほど注意をせねば気配を察知できずにいたのだが――ラウルはふと、白トカゲの声がいつになく聞き取りやすいことに気が付いた。
「君……今朝よりもずいぶん、声が大きくなっていないか。輪郭もくっきりしている」
『んなこた、どおっでもいいんだよ! 一大事だ! いいか、俺とアリアは、おまえを追いかけてヴェッセルス家に向かった。ところがだ』
首を傾げていたら、バルトは苛立たしげに遮り、素早く腕までよじ登ってくる。
咄嗟に差し伸べた掌の上で、精霊は吼えるようにして叫んだ。
『おまえの叔父の指輪に「強欲」が憑いてた! 一度撤退しようって言ってんのに、アリアは退かねえ。あいつ、ドミニク・フォン・ヴェッセルスから、今すぐ「強欲」を回収するつもりだ!』
「…………!」
目を見開いたラウルに、バルトは八つ当たりするように尻尾をぶつけてくる。
『あのドミニクってやつ、なんかやばい気配がすんだよ。もしかして「
だが、白トカゲは叫びを中断させる羽目になった。
警告を終えるよりも早く、ラウルの拳に強く握り締められてしまったからだった。
「わかった。急ごう」
短く告げるや、ラウルは凄まじい勢いで走り出す。
もちろん、バルトを握り締めたままでだ。
『あっ、えっ、ちょ……っ、その、ぐぇ、ごおえええ!』
激しく内臓をシャッフルされたバルトは、末期の叫びのような悲鳴を上げたが、ラウルは構わず走り続けた。
貧民街を抜け、大通りに出ると、待機させていた屋敷の馬車を見つける。
だが、馬車に乗っていたのでは間に合わないと判断した彼は、御者から強引に馬を奪い、直接馬を駆りだした。
(なぜ、彼女は無茶ばかりをする)
日の暮れてきた道を全力で飛ばしながら、肩を揺さぶってやりたい衝動を必死に飲み下す。
その冷ややかな佇まいから「蒼月の聖騎士」とまで呼ばれる自分なのに、アリア・フォン・エルスターを前にすると、いつだって、めちゃくちゃに感情を乱されてしまうのだった。
初めて媚びを含ませずに、ラウルを見つめ返してきた少女。
あるときは少年、あるときは洗濯女、あるときは貴族令嬢と、姿や口調も様々で、会うたびに表情を変える。
乱暴かと思えば貞淑で、罵ってきたかと思えばいきなり心の奥底に触れる発言を寄越し、可憐なのかと思えば強かで。
大胆で、こちらが肝を冷やすようなことを平然とやってのけ、頑固で、高飛車で、音のしそうな鋭さで相手を睨みつける。
けれどその瞳は、泣き出しそうに潤んでいる。
彼女は強いが、それは脆さを孕んだ強さだ。
彼女は攻撃的だが、それは大切な者を守るための威嚇で、さらに言えば弱さを隠すための虚勢だ。
敵意と警戒心の糸はいつもぎりぎりまで張られ、一歩間違えればふつりと切れそうになる。
華奢な手足を必死に突っ張らせている姿を見ていると、ラウルは無性に、彼女のことを抱きしめたくなる。
押しつぶすほどに抱きしめて、安全で温かな場所に運び去りたくなるのだ。
こうした、荒々しいほどの衝動を持つのは初めてのことだ。
ラウルは感情を乱したままヴェッセルス家へと引き返し、馬を繋ぐのもそこそこに、屋敷の中へと足を踏み入れた。
伯爵家令息の帰還に、家令やメイドたちが恭しく迎えに参じるが、彼らに声を掛けることもなく――これも初めてのことだ――、応接室を目指す。
人払いをされているのか、応接室の周囲には使用人を含む人影はなく、扉もぴたりと閉ざされていた。
だが、その隙間から聞こえる物音を、ラウルの優れた聴覚は漏らさず拾い集める。
頬を打つような音と、少女の、押し殺した呻き声。
『――……ひ』
ラウルの肩に乗り、先ほどまで威勢よく愚痴を垂れていたはずのバルトが、カタカタと震えはじめる。
『あ、あの、聖騎士の旦那、ちょ、ちょっと、その、凶暴な精霊力は、抑え――』
これまでの比ではない獰猛な衝動が、全身を貫く。
扉を開け、その先のソファで、ドミニクがアリアにのしかかっている光景を視界に入れると、目の前が真っ赤になるような感覚を抱いた。
「下郎が」
ぎり、と噛みしめた歯の奥から、ようやく言葉を発することができたのは、親しかった叔父をアリアから引き剥がし、殴り飛ばした後のことだった。
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