24.ダイヤを巡る攻防(2)

「そうそう、それからもうひとつ。君って――小柄だよね、、、、、


 その言葉に、どんな意味があるのかはわからない。

 ドミニクは獰猛な獣のように目を細め、こちらを見下ろしていた。


「あの堅物が、突然君を追いかけ回したときから、妙だと思っていたんだ。君は素敵だけど、その魅力は偽物だからね。なにが彼をして、そうも夢中にさせているのかと。答えは簡単。君が逃げるから、彼は追っていただけなんだ。仕事として」


 そのまま、指の背ですうっと頬を撫でるのを、アリアは硬直して見守っていた。


「でも、追いかけているうちに、情が湧いちゃった。彼、あれで、小さくて可愛い生き物に弱いから。……というのが僕の見立てなんだけど、どうかな? 『ラーベ』」


 突如、容赦のない力で前髪を掴まれ、カップを再び突き付けられる。

 興奮剤を吸わせる気だ。


 アリアは咄嗟に息を詰め、顔を背けようとしたが、がくんと大きく頭を揺さぶられ、その拍子に、堪えきれず呼吸をしてしまった。


 それがとどめとなったようで、くらりと視界が回りだす。

 ドミニクは満足げにカップをテーブルに戻すと、まるで恋人のような馴れ馴れしさで、アリアのすぐ隣に腰を下ろした。


「困るんだよね、せっかくばら撒いた宝石を回収なんかされちゃ。君は、エルスター家管理下の王冠を直したかっただけだろうけど、おかげで、数年がかりの計画がめちゃくちゃだ」

「な、に……?」


 理解を脳が拒む。


 大罪の憑いた宝石の持ち主は、この事件に巻き込まれた「被害者」。

 そんな思い込みのあまり、今の今まで、愚かにも気付けなかった。


 ドミニク・フォン・ヴェッセルスは、大罪に取り憑かれた「被害者」などではない。

 彼こそが、王の周辺に、上等な宝石をばら撒いていたのだと。


(ああ、そうだ……)


 ドミニクは、三年に一度行われる、ヴェッセルス家による視察に加わっていたと言ったではないか。

 そのときだ。

 きっとそのとき、国宝に瑕疵かしがないか確認するふりをしながら、金の台座を傷付けた。


「まさか、視察の、ときから、仕組んで……?」

王水アクア・レジア


 顔同士を一層近付けて、ドミニクは囁いた。


「ガザランの発明だ。火にくべずして、貴金属を溶かすことのできる奇跡の水。君も、金細工師の一族の養女となったんだから、覚えておこうね。一塗りで、金の台座を傷付けることができる」


 脳裏によぎったのは、ヨーナスが懸命に訳したガザラン小王国の文献だった。


 ――一滴の……さえ、時をかけ、大いなる災厄を導く。


 訳せなかった単語は、王水のことを示していたのだ。


 特殊な薬液を塗りつけられた台座は、完全な環の形を損ね、枷としての効力を失う。

 神聖な冠が、徐々に大罪の力に圧し負け、とうとう封印が解かれてしまう様子が、ありありと想像できた。


「王冠の腐蝕と時期を揃えて、忠臣たちに宝石が渡るようにしたのにな。領土も広げぬ臆病な王を、せっせと支える愚物ども。彼らに褒賞を授けるのが、どれだけ苦痛だったかわかるかい? あいつらのせいで、三年前の謀反は失敗したのに、その功績を称えるなんて!」


 至近距離から、ぎらぎらと瞳を光らせるドミニク。

 彼の独白に、少しずつ理解が追いついていく。


 褒賞を決める会議。

 そこに参加できるのは上位貴族のみ。

 伯爵の代理も務める、有能なるドミニク。


 彼は金鉱を所有する伯爵家の者として、または金細工師の一族として、どの宝石を誰に贈るか、議論を操ってきたのだ。


(三年前の、謀反……?)


 彼は王を見下しているようだ。

 領土拡大をせぬ王に業を煮やす――それは、三年前に王政に反旗を翻した、軍部と同じだ。


 やたらと潤沢な資金を蓄えていた軍部。金鉱の経営を一手に担うドミニク。


 すべてが、緩やかに一本の線に繋がってゆく。


(でも……、だめ、ぐらぐらする……。くそっ、しっかりしろ!)


 朦朧もうろうとしてくる意識に活を入れ、なんとか思考を保つ。


 今にも閉じそうな目で睨みつけてやると、ドミニクは「おやおや、粘るね」と愉快そうに笑い、唐突に立ち上がった。

 窓辺に近付き、満足そうに夏の夜風を吸い込む。


「まあ、君だけのせいにするのはフェアじゃないか。『暴食』はラウルじゃなくて、どこかのアメシストに憑いちゃったみたいだし、そもそも『強欲』がこの屑ダイヤに憑いちゃったのが、一番の番狂わせだ。てっきり、臆病王の馬鹿でかいダイヤに憑くと思ったのに」


 そう言って、彼は軽く指輪に口づけを落とした。


「幸い、僕と『強欲』は相性がいいみたいだけどね。指輪を付けていると、力が湧いてくる」


 宝石に「強欲」が宿っていることも、それは持ち主の魂を蝕むことも、もちろん理解しているらしい。


「なぜ、そんな、ことを……」

「わからない? 民に理解させたいからだよ。王は、王妃は、貴族は、信じるに値しないと。愚物に仕切られてすっかり臆病になったこの国には、革命が必要だということをね」


 興奮しているのか、ドミニクはだんっ、と窓枠を叩き、町並みを見下ろした。


「王はもっと果断に富むべきだ。この国はもっと戦争をするべきだ。財を蓄え、領土を広げ、皆を一層豊かにする。有能な者はもっと上へ。僕は兄を差し置いて伯爵へ……いいや、伯爵になんて留まらない。さらに多くを手に入れる」


 口調は朗々としているが、まるで夢を見ているようでもある。

 掌に爪を食い込ませてかろうじて意識を保ちながら、アリアは、自身の推理が正しかったことを理解した。


 つまりドミニクは、三年前に謀反が起こった時点から、王政の転覆を目論んでいたのだ。

 賢王の敷く慎重な治世は、領土や富の拡大を望む軍部派には、臆病に映った。


 金鉱から得た潤沢な資金までつぎ込んで起こした謀反は、しかし忠臣や、精鋭の騎士たちによって鎮圧されてしまう。

 だからドミニクは、堅牢な「守り」を蝕むことを思いついたのだ。

 勤勉で謙虚な家臣を、貞淑な王妃を、そして慎重な王自身を悪徳に染め、求心力を下げるために。


 だが予定外のことがいくつか起こった。


 ひとつは、「暴食」が、ドミニクの狙ったラウルではなく、小粒のアメシストを持っていたヨーナスに憑いてしまったこと。

 それを機に、大罪の存在を知ったアリアが宝石の回収を始めてしまったこと。


 なにより、賢王を醜悪な人物に作り替えるはずだった「強欲」が、よりにもよって、ドミニクの持つ小さなダイヤに憑いてしまったことだ。


(こいつ自身は、大罪を制御できると思い込んでるみたいだけど……実際のところ、かなり蝕まれてる)


 本分として与えられた以上のものを望み、破壊すら躊躇わぬドミニクの姿は、まさに「強欲」そのものだった。


 宝石に憑かれたからそうなったのか、はたまた、おびき寄せてしまうだけの素地が彼にあったのか。

 答えはおそらく、後者なのだろう。


 楽しくて仕方ないというように笑い、ドミニクは唐突にアリアを振り返った。


「君にはずいぶん掻き回されたが、事態はほとんど仕上げの段階だ。今日は記念すべき夜になる。君のことは放置していてもいいくらいだけど……どうしようかな?」


 こつ、と近付いてくるドミニクに、先ほどまでとは異なる雰囲気を感じ取り、身を強ばらせる。


 鼠をいたぶる猫のような瞳。

 男がこうした表情を浮かべるとき、ろくなことが起こらないというのは、経験上よく理解していた。


「ラウルと好みが似ているのかなあ? 僕も好きだよ、小柄な子って。はは、他人あいつのものを取るのだと思うと……なおさらゾクゾクする。すごく、ほしくなってきちゃった」


 本来自分のものでないと思うものほど、一層ほしくなるらしい。

 まさに「強欲」だ。


「言っとくけど、あたしは、あの男のものじゃない。もちろん、あんたみたいな、クソ野郎のものにもならない」

「へえ、それが素なんだ。いいね、嫌いじゃないよ、じゃじゃ馬ならしっていうのも」


 ドミニクがゆっくりと手を伸ばしてくる。

 全身を走った強い嫌悪感に、アリアは息を詰まらせた。


 ――君がほしい。


 こうして迫って来たのは、ラウルも同じはずだ。

 なのに全然違う。


 ラウルはただ切実にほしがっていただけだった。

 アリアを支配しようとしなかった。

 何度も口うるさく諭し、交渉は持ちかけてきたけれど、暴力で言うことを聞かせようとはしなかった。

 粘つくような獣欲を向けはしなかった。


「もうすぐ帰ってきちゃうかな。このままソファでしちゃおうか。初恋の女の子が、叔父とよろしくやっていた……いいね、一生ものの傷になりそう」


 珍しく、アリアが皮肉や罵倒を口にすることはなかった。

 それらの時間さえ惜しみ、代わりにドミニクに唾を吐きかけてやったからだ。


 ――バシッ!


 だがその瞬間、激しく頬を叩かれ、アリアの体はソファに叩きつけられた。


「ぐ……っ」

「汚い。僕、そういうのは嫌いだな。大嫌いだ」

「は……っ、せっかく、じゃじゃ馬好みって言うから、応えてあげようと思ったのに」


 頬を袖で拭ったドミニクが、ぎし、と膝でのしかかってくる。

 アリアは咄嗟に虚勢を張った。


(大丈夫。こんなの、なんでもない)


 下町育ちだ。

 少年のふりをして汚れ仕事をしていたのだから、殴られるのや蹴られるのだって慣れている。

 今は薬でふらついているが、喧嘩は強いほうなのだから。


(黙ってやられてたまるか)


 無意識に胸元の金貨を握り締め、反撃を誓った。

 ベルタの遺した金貨は、握ればいつだってアリアに覚悟を決めさせる。

 手が細かく震えていることには、気付かないふりをした。


 機を窺うのだ。

 かつてエメリヒにしたように、急所を狙う。


 うっとりと耳に唇を寄せると見せかけて、耳たぶを噛みちぎってやろうか。

 身を起こしたところで、急所を蹴り上げればいい。

 鼻に噛みつく。

 肘で喉を打つ。

 カップをたたき割って、破片で目を刺す。


 なんでもいい。

 どれかひとつでも、決まってくれれば。


(力を抜くのよ……力を抜く)


 スカートの裾に忍び込みはじめた手の感触や、腫れはじめた頬の熱。

 全身にのしかかる重み。

 それらを意識的に振り払い、胸の内で何度も繰り返す。


 相手を油断させるのだ。

 それが、弱者が反撃するときの唯一の戦法。


 無力な小動物のように、諦念と従順を装って。

 おずおずと、相手に身を委ねるふりをする。


 できるはず。

 「可憐で大人しいアリア・フォン・エルスター」を、自分はもう何度も演じつづけてきたのだから。


(力を、抜いて……相手を、受け入れる、ふり)


 心臓が狂ったように暴れている。

 汗が噴き出て、頭ががんがんする。


 いやだ。

 怖い。


 けれどすくんでいてはいけない。

 備えて、やり返すのだ。


「なんて白い、滑らかな肌だろうね。いいなあ。これはちょっと、はまっちゃいそう」


 ぐい、と強引に膝を割られた瞬間、アリアは思わず喉を引き攣らせた。


(いや……!)


 だが叫んだところでなんになる。

 誰も助けてはくれないのだ。戦わねば。


 息を潜めて、一度身を屈め、それから痛烈な、反撃を――。


(怖い)


 はっ、は、と不規則に胸が波打つ。

 高まりすぎた鼓動に追いつかなかった呼吸が乱れ、涙が滲んだ。


 肩を押し返そうとした右手を、関節が抜けそうなほどの強さで掴まれ、頭の上に押し付けられる。

 金貨を握り締めていた左手も、邪魔だったのか強引に振りほどかれ、右手とひとまとめにされた。

 片手でやすやすと動きを封じてしまえる体格の差。

 ラウルも似たようなことをしたけれど――彼は「色欲」にやられてなお、アリアの腕を、骨が軋むような強さで握ることはしなかった。


 暴れようとした瞬間、頬を打つこともだ。


「い……っ」

「大人しくしていてくれないかなあ。君が嫌がれば嫌がるほど、僕は君を捕らえたくて仕方なくなる。ほしくて、ほしくて……次はなにをするか、わからないよ」


 ドミニクの声が興奮に掠れている。

 近付いてきた唇に思わず顔を逸らすと、彼はぐいと、アリアの頬を掴んで振り向かせた。


「気分が悪そうだね。でももうすぐしたら、興奮剤がきちんと効いてくる。楽しい夜を過ごそうよ。だって今日は、記念すべき夜になる」


 吐き気がして、横たわっているのに全身がぐらぐらする。

 ドミニクがなにを言っているか、よく聞き取れない。

 もう、唾を吐きかける力さえ、残ってはいなかった。


(いやだ。怖い。――怖い!)


 とうの昔に、精霊を信じることなどやめていた。

 だからこんなとき、アリアはなにに縋ればいいのかわからない。


 だって、助けを求めて伸ばした手は、いつも宙を掠める。

 アリアに差し出されていた、ベルタの優しい手は、もうこの世にないからだ。


 代わりに差し向けられるのは、忌まわしい男の手ばかり。


 押さえつける手。

 殴る手。

 そうでなければ、優越感と憐憫をまとわせて、上から「差し伸べる」手。


 ああ、それでも二人ほどは、真正面からアリアに手を差し出した男がいただろうか。

 一人は財布を握らせてくれて、もう一人は、おかしなことに求婚をしてきた。


 だが今、どちらもアリアの前にはいない。

 いないのだ。


(助けなんて、来ない)


 ぎゅっと目を瞑ったそのときだ。

 突然、体が軽くなった。


 ――ガッ!


 同時に、鈍い音が響く。

 のしかかっていたドミニクの姿が消えていた。


 一拍遅れて広がる、ガシャンッ! と窓ガラスの割れる音。


(え……?)


「――下郎が」


 ひやりと涼やかな声が降ってくる。

 驚きに身を起こし、霞む目でなんとか全容を視界に入れて、アリアは喉を震わせた。


「あ……」


 一切の表情を消したラウルが、その場に立っていた。

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